お師様は時々、月を見上げる。
音も無く立ちあがり、私に何も言わず視線もくれず、縁側へ出て座りこむ。そして柱にもたれて月を見上げる。
たった一人の空間に、私さえも入る事を許さない。
だけど、私は遠くで見つめている。何を考えてるか全然追いつかないけど、私はその紺色の瞳に映っている想いを、探しながら見つめている。
きっと私には、わからないと思うけど。
でも、ずっと見てる。
月から目を離し、私を見つめてくれる瞬間が、とても好きだから……。
遠くに馳せた心が、私を見た瞬間に戻ってくる。それが、とても好きだから。
「どうした、紫」
その低い声で呼んでくれたら、側に行ってもいいってこと。
「いいえ、お師様」
でも、今日は側には行かないのです。いつも、我慢できなくなって側に寄ってしまうけど、お師様のその声で聞きたい言葉があるんだから。
「月を見上げるお師様は、まるでかぐや姫の様ですね」
私は立ちあがりかけた膝に握った手を置いて、ぎこちなく笑う。
お師様は怪訝そうな顔をした。
「かぐや姫?」
「私にくれた巻物にありました! くれたものぐらい覚えてくれていてもいいじゃないですか」
「興味無いから、読んで無いな」
そっけなく言いながらも、お師様は私から目を離さない。
「どんな話だ?」
目に少しだけ笑みが含まれ、私の心臓は大きく揺れた。まだ慣れない。こんなにずっと側に居るのに、その視線からは逃げたくなってしまう。
「えっと……おじいさんが竹を切ったら、その中に女の子が居て、おばあさんとかぐや姫って名づけて大切に育てて、綺麗にそだったら求婚者がいっぱい来て、
無理難題押しつけて、求婚を断りつづけてたら、かぐや姫がある日月を見てさめざめと泣くので、どうして泣くのか聞いたら、実は私は月の人間で、
月に帰らねばならないとか言い出して、おじいさんとおばあさんは月に帰したくないから、帝に頼んで兵隊をだしてもらうんだけど、月から使者がやってきてかぐや姫を連れて帰っちゃう話です」
一気に話しきって、私が息切れ切れになると、お師様は唇を歪める様にして笑った。
「だんだん赤くなっていったぞ。顔」
「息が苦しかったからです……」
「だったら、きちんと落ちついて話せばいいじゃないか」
お師様はそういうと、また月に目をやった。
落ちついて話させたいのなら、あんまり見つめないで下さいなんて言えるはずもなくて、私はお師様の横顔を見つめた。
また、一人で遠くへ行ってしまうのかと思ったけど、ただ月を見ているだけみたいだった。
「どうして、かぐや姫は地上に?」
お師様は興味がないとかいいながらも、話を続けてくれるみたいだった。私は嬉しくて、一生懸命に思い出す。
「かぐや姫は、月で悪いことをしたらしいです。それで、罰としてこの地上に」
「地上で生きることが罰か……」
呟いたお師様の声が、何か重苦しくて、私は先を何か続けなくちゃと焦ってしまう。
「月の住人は、不老不死で、苦労知らずとかっ!」
「不老不死……」
お師様はまた呟くと月を見つめてしまう。
「月の住人か……」
月をうっとりと眺めるお師様の雰囲気が、どんどん遠くになっていく。
「だったら私は、罪人で地上に落とされたのか……。罰が足りなくて、誰も迎えにこないだけかもしれないな」
私は急に不安になってしまった。本当にそうなのかもしれない。かぐや姫の話をしたから、お師様は自分が月の住人だってこと、思い出しちゃったりしたんだろうか。
私はじっとお師様の後姿をじっと見つめた。
月に思いを馳せ、心ここにあらずだ。
「まだ、この地上で俗にまみれて暮らせと……」
声がだんだん低く小さくなっていく。月を見つめているお師様の顔が、こちらからは見えない。
「お師様?」
不安になった。そんなに月を見ないで下さい。
お師様、こっちを見てください。私、ここに居るんですよ!
「私がいかほどの罪を犯したと言うのだ……。彼女は帰れて、私はまだ足りぬと?」
「お師様っ、行かないで!」
その腕に飛びついて、頭を押しつける。
「お師様がかぐや姫の知り合いでも、帰らないで下さいぃぃ!」
「誰が知り合いだ」
ポンっと頭を軽く叩かれ、私は顔を上げた。こちらを見つめているお師様の目は、いつもと同じ。きちんと私を見つめてくれている。
「お前、すごい顔をしているぞ。いくら、私がお前の力に捕らわれてるとはいえ、そんな顔では冷めるな」
懐から懐紙を取り出して、お師様は私の顔をぬぐってくれる。気がついたら涙でくしゃくしゃになってたみたいだった。懐から取り出した懐紙は、私がお師様の衣に焚き染めた伽羅の香りがした。
「お師様、かぐや姫じゃないんですね」
「月の住人か。興味深いが、私は違うな」
「よかったぁ」
ほっと胸をなでおろし、私はあることに気付く。お師様に近づかない様に気をつけていたのに、自分から駆けより、抱き着いてしまったことに。
私の、計画がっ。
お師様から、あの言葉を聞く計画が。と、一人落ちこんでいると、お師様の手が伸びてきた。
気がついたら私は突然お師様に抱きしめられていた。その状況を把握するのに、多少時間がかかってしまったけど。
「な、なんですかっ、お師様」
「お前、自分の衣には香を焚き染めないのか?」
「えっ、えっ、えっ、だって……」
「まあ、焚き染めなくても、お前はいい香りがするんだがな」
お師様は気付いて無いんだ……。
私はお師様からあの言葉を聞く計画が失敗したことも忘れて、にんまりと笑ってしまった。
お師様が言う『いい香り』、何の香りか気付いて無いんですね。
私はお師様の香りを吸いこむ。私が焚き染めた香とお師様の香り……。
そして、私の香りは……。
お師様は私を離すと、縁側に座らせた。そして、月をまた見上げる。
「絵巻物、気に入ったのか?」
「はい」
「今度は何が欲しい?」
「私は……特に何もいらないんです」
私も同じように月を見上げる。
これで、私には充分なんだから。
贅沢を言えば……たまには言って欲しいぐらい。
『側に来い』とか、なんとかいって、私を必要とする言葉を聞きたいぐらい……。
しばらくして、お師様は懐から扇子を取り出す。優雅な手つきで広げ、月を指し示した。まるで、月を扇子の上に載せるように。
その仕草を見つめながら、私は近くに咲いている桔梗を手に取る。星型の紫色の花を、その扇子の上に載せるとお師様は少し笑った。
桔梗を載せたまま、扇子を床に置くとお師様はしばらく秋の庭を見つめていた。そして、また唐突に呟く。
「今度は、香を贈ろうか?」
ずっと、私に何を贈ろうか考えてくれてたんだろうか? そう思うと、私の顔は崩れてしまう。
「いいです、お師様。本当にいいんですよ」
私にはお師様の移り香で充分なんです。
それにいつ気付いてくれるか、それだけが気がかりだけど。
桔梗の花をつまんで、夜空に掲げる。
星の形をした花が、私の手の先で風に揺れるのを、じぃっと見つめていた。
「……そろそろ寒くなるな」
秋の冷たい風は、小さく呟いたお師様の声と桔梗の花を攫って夜空に消えた。
【終】
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