どこから、始まったのか。
どこへ、行くのか。終わるのか。
それさえもわからずに、私は永遠に回りつづける。
全てに与えられているはずのものに、私は永遠に焦がれ続ける。
誰か、私に……。
私に終焉の歌を歌ってくれ。
湿った洞の壁は、松明の頼りない光で滑ったように光った。水が地面に落ちる音さえ、警戒心の引き金になる。
男は右手に持った松明を、スッと顔の前で横切らせる。藍色に近い紺色の髪を左手でかきあげた。油断なく前後に気をやる。彼は立ち止まると、クスリと笑った。
その後ろを歩いていた気配が、怪訝そうに男をみやった。
「楽しそうですね」
不服そうな声に、彼は一段と楽しそうに笑う。
「楽しいな」
彼は視線を遥か下に、――少々誇張しすぎか……、下のほうにやった。紫色の髪と同じ色の目が、少し苛立ちを含んで、男を見上げている。
「悪趣味です!」
人差し指をつきつけて憤慨する小さな少女に、彼は声も立てず笑ってみせた。髪と同じく紺色の瞳が細められ柔らかな表情になるのだが、その瞳の奥の光は冷たいままだ。紺色の髪の間から下げられた飾り紐の紅が揺れた。
「何を今更」
「でなければ、不謹慎ですっ」
「不謹慎? 不謹慎もなにも……」
彼は再びくすりと笑うと、回りを見渡した。少女はまだ不服そうに頬を膨らましたままだ。
「しっかし……この気はなんだ。不老不死というのもまんざら嘘ではなさそうだな」
「本当ですか?」
とたん嬉しそうに顔を輝かせる少女は、いまにでも万歳とでも叫んで、飛びあがって踊りそうな雰囲気だ。
「ああ、ようやく『ガセネタ』じゃないところに来たんですねぇ! お師様!」
「さぁてねぇ。あまり期待するんじゃない。それで、またはずれだったらお前、どうやって立直るんだ?」
「そんなの、そのときに考えればいいんですっ。お師様は考えが古い! 古い古い古いです!
年寄ばかり相手にしてたからじゃないんですか? 嫌ですよ。外見『だけ』は若いくせに」
「悪いな。歳取らなくて。おまえも人のこと言えるのか?」
「私がこんな姿なのは、お師様がそうしろっていったからでしょー!!」
少女の率直な憤慨ぶりに、またもや彼は楽しそうに笑った。先ほどまでの緊迫感など、どこに飛んでいってしまったものか。
「少女の姿でも、お前は危ないのだよ。もう少し自覚しろ、その目に宿る力をな」
揺れる明かりの下で、少女は恨めしそうに彼を見上げる。彼はそんな彼女を見下ろして、少しだけ笑った。
「お師様ぁ」
「それに、私はお前の本当の姿を他の男達の目にさらしたくないね……」
低く心の中にまで染み込んでいく美声で、そう囁くと少女は嬉しそうに彼を見上げた。
「お師様!」
「とでも、言えばお前は満足するのだろうなと思ったが……。図星か」
「……」
「そう嘆くな」
「怒ってるんです!」
「どっちでも変わらないよ。
こうやってじめじめとしたところにいる自分を省みるとな。私がその力に捕らわれてしまってる存在だと、いやでも再認識せざるえないな。
不老不死の妙薬などと言うあるかないかわからぬものを探しているのか、お前のために」
「人のせいにしないで下さい。お師様だって欲しいって言ってたじゃないですか。
半分は自分のためのくせに……」
ぶつぶつという少女の後姿を、笑いながら見つめていたが、彼はすっと彼女の両脇を抱え上げた。
小さく悲鳴を上げる少女を肩に座らせて、彼は回りの様子を探った。
「お師様?」
「紫、静かに」
唇に手を当てて、彼はそう呟いた。紫と呼ばれた少女は、不安そうな顔をして彼の頭を抱える。目を塞がない様に気を付けながら。
周りの空気が変わった……。
緊張感が張り詰めていたのは、先ほどとは変わらない。変わったのは密度か。
ずんっと重くなる空気。おそらく、紫はわかっていないだろう。微妙な空気の違いだ。密度、そう……肌触りと感触。
かすかな、馨り。
「香?」
朝廷の女たちが好んで使う香の中に、同じような香りがあった。男は記憶をさぐる。ふくよかな赤い唇。石楠花の花が好きだと言ったあの女の名前は何と言ったか。
何人かの女の顔を思い出しているうちに、足元が低い唸り声を上げ出した。
「お師様!」
紫が恐れのこもった高い声で、彼を呼ぶ。松明を取り落とし、だがそれには目もくれず彼は壁際から離れた。
壁にはいつのまにか無数の血脈が走り、そこを液体が流れているのが見て取れた。まるで心音のような音を立てて、血脈がうごめく。
「嫌すぎですー!!」
「怖いのなら目を瞑っていろ!」
自分の頭を抱える紫の腕に力がこもったのが腹立たしいのか、それとも予測以上のことが起こっているのが腹立たしいのか、男には判断できなかった。
水で濡れていた壁から、粘液のようなものが放出されはじめた。足元にせまり、それは彼の足を捕らえる。
「悪趣味なことを」
彼は口元に笑みを浮かべた。右手を足元に向け、左手を懐に忍ばせる。足元に向けた右手が、ぽおっと微かに光ると力が地面をえぐった。
奇妙な高い声が響きわたり、粘液が後退した。それを見逃さずに、懐に忍ばせた左手に小刀を握り、地面につきさす。
刺した小刀に小さく息を吹きかけると、そこから強烈な光が四方に散った。
と、彼の周りには壁でもできたかのように、粘液が寄りつかなくなる。
「もう平気だ」
「すみません、お師様……」
少女の体を再び抱き上げ、地面に下ろすと、彼は周りをゆっくりと眺めた。
上から落ちてきた粘液の固まりも、彼の頭上で弾き飛ばされた。
「結界ですか? さすがですね」
ほぉっと感心した様に息を洩らす紫に、彼は冷ややかな目線を向ける。
「お前も、この程度の事は出来るようになってくれなくてはな」
「す、すすすみません」
「さぁて、主のお出ましか」
顎をしゃくり前方の壁を指し示す。と、壁にうごめく粘液が、また違う動きを見せ出した。自分の身体にすりよってくる紫の肩に手を置き、男は小さく囁く。
「いいか。決して悲鳴を上げるな」
「どうしてですか?」
「……姿を見られて、悲鳴を上げられて、嬉しい女がいると思うか?
ここは女神の名を持つ地だ。何が出てくるかは、想像つくだろう?」
「は、ははい。解りました」
うごめく粘液の下から、せりあがってくる。粘液が少しずつ形を変え出した。窪みと山が何度か入れ替わり、それはゆっくりとゆっくりと……。
顔になっていく。
紫は口に両手を当てて、息さえも漏らさぬ様にしていた。彼はその顔が出来て行く様をじぃっと見つめている。
粘液はゆっくりと固まっていった。一つの白い女性の顔。
美しい……。
思わず洩らした彼の言葉を紫は聞きとがめて、眉を吊り上げるが、そのようなことに構っている暇はない。
カッと目を見開くその顔を見て、彼は悠然と笑みを浮かべた。
『珍しいな。このようなところまでやってくる人間がいるとは』
女はそう喋り、笑みを浮かべる男の顔をまじまじと見つめる。
『しかも、生きている』
「悪趣味な歓迎は、人間を撃退するためか?」
飄々と言い返す彼の服を握り締めて、紫は女の顔を見ていた。
妖艶な微笑を浮かべる女の顔は、毒々しい美しさを放つ。死臭とも言えそうな甘くむせ返る香り。
師は大丈夫なのだろうか? この香りは、母の放つ香りに似ている。人を魅了し、その感覚まで鈍くさせてしまう。
母が男の魂を食らうときの、香りに。
『撃退? そのようなことに意味はなかろう。もちろん、殺すためだ』
【殺して魂を食らうのさ】
【たまの馳走じゃ】
【今回は捕らえ損ねた、なぁ?】
【いやな気を持っておる……】
はっと回りを紫は見渡した。と、壁にはいくつかの女の顔や半身が浮かび上がっている。白い腕がうごめいていた。
どの女も美しい顔をしている。整った顔だが、同時に禍禍しい。
周りの女たちはそう言い、そして、さざめく様に笑う。
【いやな気だ】
【二人ともいやな気を持っておる】
張られた結界のおかげで、女たちは紫達に触れる事はできない。結界の狭間まで手を伸ばし、ぺたぺたと触っている。背中を走る悪寒に身を震わせて、紫は師の前面にいる女に視線を戻した。
女は男の頭の先から足の先まで舐めまわすように見つめて、目を細める。
『人では、ないということか』
「そういうことだ」
『名を、貰おうか?』
女の凛とした声に、彼は唇を歪めて笑う。
「悪いが……それは出来ない。私は名を持っていない」
『ほお……。終わり無き者か。
永遠の命……。永遠の若さ?』
妖艶さの間から、少しだけ悲しみが見え隠れするのを紫は敏感に察した。
どこからどこまで、母に似ている。
母は……男の魂を食べた後、その屍をじっと見つめて泣くのだ。自分の思いと自分の本能の狭間で、悲しみ続ける。
紫は視線を落とした。
魅了の鬼の宿命……。私はそこから逃れるために、ここに来ていると言うのに、母の悲しみを思い出す。
母の香りを思い出す……。
『では、名はいらぬ。何と呼べばいいのか教えてくれぬか? 今の偽りの名を』
彼は少し目を細めると、自分の紺色の髪を指し示した。
「では、この色の名前で」
『……あくまで、自分の口からは言わぬとな? 用心深い事よ』
女はクスクスと楽しそうに笑った。
『それでは、藍とでも呼ぶか? 紺、では響きが美しくなかろう?』
「ありがたいな」
『そちらの小娘は? 妖の子か? まだ、継承をしておらぬな……。
名前は……』
女の唇の端が吊り上る。紫はその笑みを呆けた様に見つめていた。
『紫、とでも呼ぶか?』
しまった、と彼は振りかえった。きょとんとした紫の瞳にぶつかる。
「お師様?」
小首を傾げる少女の体が、きゅうにふわりと浮いた。
「お師様っ!」
「っつ!」
バタバタと手足を動かし、その力に抗おうとする少女の体を、彼は両腕で抱えた。すさまじい力に、少女の体は結界から引出されようとしていた。
周りの女たちはクスクスと笑い続ける。前面の女は目を細めて成り行きを見守っている様だった。
結界から出た片足を、壁の女たちの白い手がつかんだ。
「いやぁっ!」
半狂乱になって紫は、師に手を伸ばす。掴まれた部分がちぎれそうに痛い。熱い!
「捨てろ、紫!」
「何をですか? 何をっ。お師様っ!」
「私が許す! 解き放て」
少女は目を瞑り、そして、両掌を合わせた。ぐっと眉間を寄せて、力を込める。
と、少女の身体から閃光が走った。熱と白さをもった光に、少女の片足を掴んでいた女が悲鳴を上げる。彼はその熱さに耐え、少女の身体を抱えたままだった。
閃光が収まり、そこには先ほどの幼女はいなかった。紫の髪は地を這うほどに長く伸び、全身を這っていた。四肢はすらりと伸びている。
一人の女性が、男の腕の中にいた。先ほどまでかかっていた引力は絶ちきられている。
「お師様……」
疲れた顔をして彼を見上げると、彼は目を覆っていた。彼女を地面に下ろすと、背を向け自分の着ている衣を1枚脱ぎ渡した。
紫は地面に立ち、自分の身体を見下ろした。そのときになって、自分が裸同然なことに気付く。
「ありがとうございます」
渡された衣に袖を通すが、師が目をそらしたのは自分の肌からではなく、目からだということは重々承知していた。
「あの……目の方は?」
「そのままにしておけ。意味がない。ただ、私をその目で見るな」
「そ、そうですよね……。お師様、嫌いですものね」
『妖だとは思ったが、なんと、夢幻の鬼か』
前面の女は、驚いた様に呟いた。
『継承もしておらぬのに、これほどの力を……』
「だから、側に置いているんだ」
彼はそう言い捨てると、紫を再び自分の背中にかばう。
「というよりも、捕らわれている」
男はにやりと笑う。
「こんな辺鄙なところにわざわざ来たのも、彼女が『不老不死』の薬を望むのでな」
『しかし、夢幻の鬼と終り無き者の組み合わせは、不毛ではないのか』
「だから、薬を求めてるんだ。
こいつはまだ、継承していない。母がまだ生きているからな」
『妙薬で、母の命を延ばすか? 残念だが、そのようなものはここには……』
「……ないのか?」
『不老不死……。歴代の帝達も、求めてここに使者を遣わすのだがな。ここで、果てるのだ。
ここは回廊とでも言うべきところ。この先の神殿にあるといえばある。ないといえばない』
「どういうことだ」
不審な顔をする男。紫は女の顔を見つめていた。この前面の女と周りの女たちでは雰囲気が違う。雰囲気と言うより、彼女だけ冷めた顔をしている……。
『……妙薬、とでも言う物はないのだよ。場所なのだ』
彼は女の神妙な顔を見つめていた。周りの女たちがまたさざめく様に笑い、口々に何かを喋り出す。
統一感のないお喋りに、紫は耳を塞ぎたくなった。
「場所、か」
『そう、この場所にいれば永遠の命は保証される。だが、出ることはできぬ。この暗い洞の中で、ずぅっと生きつづけるか?
我々のような姿になって』
「お前たちは」
男が前面の女に顔を向ける。そうか、女神という名はついていても、どこか俗世間との繋がりを感じたのはそういうことなのか……。
女は目を伏せた。その顔と対称的な周りの女たちの嬌声に、胸を締め付けられる。
「神ではないのだな? 人、なのだな」
『永遠という言葉だけに捕らわれた愚か者よ。
永遠の美しさ……、その妄執に取りつかれ、その妄執だけを頼りに生きつづける。
否、存在しつづける……』
女は静かな笑みをたたえた。その笑みをまぶしく見て、彼は小さく息をつく。
『妄執に捕らわれたままの意識はまだいい。
気がつけば、それは無限の罰だ。……罰なのだよ、たまらぬ……』
周りの女たちはクスクスと笑ったままで、この女の言葉を聞いていない様だった。彼は周りを見渡した。
虚ろな女たちの目。それぞれ、美しい顔をしているが、どこかで醜いと感じてしまう。
理に反した美しさ。
永遠に存在することが理に反するというのなら、醜いと言うのなら。
私はいかほどのものであろうか?
「お前は、気付いてしまったのか」
女は長い間沈黙を保った。そして、ぽつりと言葉を落とす。
『どうして、私だけ。
他のものは気付かずに、永遠に美しいと喜びの中で生きつづけることが出来るのに』
「賢しいことも、仇となったな」
女はしばらく目を伏せていたが、すぅっとその目を上げた。静かな瞳で男を見つめる。
『私のことは、よい……。お前達は私の術もこの洞の罠も破った。私の知る限りのことを、伝えてやりたい』
彼はしばらく、顎をつまみ考え込んでいる様だった。紫を振りかえる。
「ここには、無い。まだ、猶予があったな?」
「母様は、あと20年は持つと。それから、5年経ってますけど……。お師様はいいのですか?」
「私には猶予というものは関係ないからな」
「では、私はここには執着しません」
「次を見つけろというわけか。やれやれ、人遣いの荒い事だ」
「そ、そんな意味ではっ!」
「解っているよ、紫。早く不老不死の薬を見つけ、お前の母の命を延ばさねばな。
でなければ、私がお前の餌食になる。生気を吸われても、私のは勝手に復活するからな……生き地獄もいいところだ」
「そんな言いかた無いじゃないですかっ!」
「喜んでいるのだよ。わからないか?」
「難しくて解りません!」
笑いながら、彼は女に向き直った。
「ということだ、私達はもうここには用が無い。他に、不老不死、または延命の薬があるという噂を聞いたことがないかを教えてくれないか?」
『そうだな……。若狭の国。人魚が出るとか。食らうと不老不死になると』
「ああ……比丘尼がいたな、そういう」
『それぐらいか。一番情報が入るのは、朝廷だろう。帝の側に仕えていれば、そのような情報はすぐに入る。特に、薬師であれば。
そういう輩が、よく来るのでな』
「その手はな……ガセも多いが悪くないのだ。帝の側で気をつけなくてはならないのは、この顔が男にも受けるということだな……」
ひたひたと自分の顔を叩く彼を見つめ、女はため息混じりの言葉を吐き出す。
『そうか、実証済みか』
「だが、帰るしかあるまい。さて、お前、ここから出たいか?」
『……何を言う』
女の顔は無表情のままだった。男はその顔を見て、薄く笑う。
「出たいのなら、私に名前を捧げろ。本当の名をな。
出てすぐに消滅する勇気があるなら、お前を出してやろう」
女はまじまじと、彼を見詰めた。彼は、その口の笑みを絶やさなかったが、真剣な瞳で彼女を見つめている。
「私には出来る。お前が『本当に』望むのならな」
『私の名は……』
女は目を伏せた。小さく震える口元を、彼はじっと見つめる。
「私の好意は気まぐれだぞ」
『私の名は、ましほ……』
女は目を開き、彼を見つめる。
『ましほ、だ』
「ましほ」
彼は小さく呼び、右手を彼女に向けた。赤い唇から、低く美しい声で語りかける。
「声と響きは力の根源。我が言葉には、力が宿る。
ましほよ、お前を捕らえるこの場所の鎖をはずし、わが元に来るがいい」
誘う様に右手を振る。彼は紺色の瞳をましほに向け、そして、微笑んだ。
「結びを解け」
ましほは恍惚とした表情で、彼の言葉を聞いている。まぶたはゆっくりと落ちて行き、顔と上半身が、ずるりと壁から出た。
紫はそんな様子を、口を抑えて見つめている。
「由を忘れ、故を忘れ、我が物に」
女は両手で自分の顔を覆い、カタカタと震えはじめた。その異変に紫は目を見開く。
男は眉を寄せた。だが、強引に続ける。
「我が手へ、ましほ!」
差し出した手の前で、女は苦しそうに叫び始めた。美しい顔が奇妙に歪み、口が縦に大きく開かれる。
「駄目です! お師様!」
紫が彼の腕を取る。彼の額にはびっしりと汗が浮かんでいる。眉根を寄せて、言葉を繋ごうとする。
「お師様! 拒絶が!」
悔しそうに男は舌打ちをする。言葉の力が遮られたのは男にもよくわかっていた。
相手の強い望みがなくては、この強い力には勝てないというのに。
「お前は出たいと願った! 名も与えた! なのに何故まだここへ固執する!」
『死にタクナイ……』
女は叫び声の合間からうめき、周りの女たちも笑い声を途絶えさせ、今度は黙ったまま女を見つめている。
『ウシナイタク……ナイ』
「愚かな! 自分を愚かだといいながらも、まだ捕らわれたままか!」
「お師様、駄目です! 駄目です、お師様! 来ます。大きな……」
紫は洞の奥を目を見開いて見つめた。かたかたと口元にやった手が震える。強烈な圧迫感。胸に迫る焦り。
「来ます……大きな力が……」
「愚かな。終わりの無い命になんの思いが?」
「お師様、駄目です。お早く! この地の力が」
洞の奥から白い光が向かってくる。彼は女から目をそらし、その光をまぶしそうに見つめる。
呆然として、そして、呟く。
「『神』……」
「彼女を捕らえているのはあれです。 無理なのです、お師様!」
彼は軽く舌打ちをすると、頭の飾りを一つ取った。小さな赤い紐の先には赤い玉がついている。紫の腰に腕を回し、そしてその玉に小さく呟く。
「戻る。疾く」
たった一言だった。二人の身体は空間に掻き消え、その直後にその場所は白い光でうめ尽された。
女たちの顔も、ましほの顔も光で照らされ何も見えなくなった。
ましほ……。
どこからとなく落ちてきた響きを、その光は包みこみ、そして、再び洞には暗闇が戻る。
ピシャン……。
どこからか水の落ちる音が響き、その場には棒切れだけが残った。火が灯り、松明だった残骸だけ。
二人が再び現れたのは、その洞の入り口だった。うっそうとした林に隠され、蔓で覆われ、一見何もないように見える。
彼は、近くの木の枝にかけていた髪飾りの紐と玉を取り上げると、持っていた玉と一緒にまた髪の中に埋めこんだ。
「はぁ……。なんだったんでしょうね。あの大きな力」
「気、思い、念。そういう塊だ。
あれが、女たちをここに呼ぶんだな……。永遠に美しくいたいと言う、恐ろしき執念をな」
低く小さな声で説明する彼を、紫は覗きこんだ。
「紫、その目のまま私を見るなと言っただろう?」
「いえ、ですが、お師様……。なんだかさびしそうですから」
「さびしそう? 私がか」
「ましほさんを救えなくて」
紫の言葉に、彼はぐっと黙りこんだ。そして、木の根元に座りこむと、紫の腕を引っ張り隣に座らせる。
「何が救いだ?」
そう小さく吐き捨て、地面を睨みつける。
お師様、と小さく呟く紫の耳をつまみ、自分の口元に寄せた。
「痛いですって!」
「戻してやろうとしてるんだ。我慢しろ」
「まだ戻さないで下さい!」
叫ぶ様に言う彼女の言葉に従って、彼は手をぱっと離した。泣きそうな目で自分の耳を擦る紫に目も向けず、男は不機嫌そうに言い捨てる。
「そのままの姿がいいのか?
それで都に帰れば、お前の通る跡には、男の死体を大量生産か。愉快だな」
「私はまだ生気を取る力はありませんよ。まだ、継いで無いのですから」
「わかってる。だが、お前のその目に正気でいられるのは、私ぐらいだぞ。辛うじてな」
魅了された男達は、彼女を得るために戦い殺しあうだろう。
目と姿で魅了をし、夢幻の狭間で魂を食らうという鬼の子供。その力は先代が死ぬまでは継がれることはないというが、どうしてか、この娘は魅了の力だけは持っている。人の生気の食らい方は知らぬらしいが。
初めて会ったときに、無防備だった力に捕らわれて以来、彼は紫から離れる事が出来ずにいた。長い今までの生の中で、一番の失態だと思っている。
正気を失うということが無いだけ彼は幸せなのかもしれない。自分がこの少女に、夢中になっている姿を想像するだけでも、困惑よりも失笑してしまうのだった。
「ですけど、私が大きく無いと」
紫はにっこりと笑い、彼の頭を抱きかかえる。その胸に抱き寄せられて、男は少しだけ目を丸くした。
「おい!」
「お師様をこうやって、抱きしめて上げられないじゃないですか」
「……余計なお世話だ」
紫色の髪が頬をくすぐり、柔らかな香の匂いが、彼の鼻をくすぐる。その柔らかな胸に片頬に押しつけられて、彼はため息をついた。
「紫……」
「はい、お師様?」
「『終わり』は『救い』ではないのか?」
「……」
胸元で吐き出される呟きを、紫は神妙な顔で聞いていた。
「わからぬ……。私は、自分に無いものを求めているだけなのか?
自分に無いものに、救いを求めているだけなのか?」
「お師様……それは」
紫は珍しく弱音を吐く師の髪を、白い指で梳き、その頭に唇をつける。彼はそれ止めさせようとはしなかった。
「わからないのではないでしょうか?
私は、母を生かす事で、自分の幸福を得ようとしてます。
母が永遠に生きれば、私は母のような悲しみに包まれなくて済むのです。
幼き頃から見つづけた、母の背中の悲しみを……」
夢幻の鬼は人を魅了し、その魂を食らう。
魅了すると同時に、鬼はその人間を深く愛する。
深く愛しながらも、食らわねばならぬ。
夜中に見る母の後姿は、妖しく艶やかで……だが、消えてしまいそうなほど儚い。
お前にはこんな思いをさせたくないのだと、母は泣く。
私を作っておきながら、継承させるために、自分が終わるために作っておきながらも、そう言って泣くのだ。
だから、紫は不老不死の薬を求める。母が泣くので。自分が泣きたくないので。
継ぐために生まれたのに、継ぐことを拒んでいる。
紫は師の頭を抱きかかえる腕に力をこめた。彼は彼女の心音を耳元で聞きつつ、静かにまぶたを閉じる。
彼女が少しだけ動くたびに、甘い香が彼の鼻腔をくすぐり、心に落ちつきをもたらす。
その香りは、朝廷のどの女たちも持ち得ない香りだった。紫だけの、香り。
「お前と……」
「はい?」
聞きなおす紫に、彼は何もないというように手を振る。
終わらない時間の中で、おまえと出会えたのは。
もしかしたら……。
少しだけ笑った師の顔がいつもよりも穏やかで、紫は首を傾げつつ唇に笑みを刻む。
男は一人で身体を起こす。そして、彼は無言で遠くを見詰めていた。
やがて、その唇から美しい声で呟くのを、紫は待っていた。
「次……行くか」
「はいっ。お師様!」
終わり無き者は、終焉を求め、不老不死の仕組を求める。
夢幻の魅了鬼は、『幸福』を求め、不老不死の妙薬を求める。
無限の命に飽いた者と、愛した者を食らわねばならぬ者。
二人の願いは遠い。
叶わぬことを知りながらも、一縷の望みにかけてしまう。
『いつか』という言葉の、もろさとあやふやさに気が遠くなっても。
【終】
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