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ループ
 
 すべては同じことの繰り返しだとずっと信じていた。
 
 
 
 水音が気になった。
 いつもと同じようにネクタイを締め、開きダンスの扉の内側に付けられた鏡を覗き込む。
 そういえば、もう直ぐユキの誕生日だったな、などと思う。今日つけようか迷ったネクタイの一つは、ユキから誕生日のプレゼントに貰ったものだった。
 何が欲しいと言っていただろう? 指輪。指輪か……。
 思案しながら背広を片手にかけて1階に降りた。左手の扉の向こうに台所がある。
 地方の天気予報を読み上げるテレビ。父が読んでいる新聞。その奥で黙々と皿を洗う母の後姿。
 皿を洗い流すために出し続けられる水道水。
 何一つ変わらない朝だったのに、何故か水音が気になった。
 いつもは無言で家を出るのに、その日は声を出したくなった。
「いってきます」
 返事は返ってこない。昨日のことを思い出して、納得する。昨日の夜、ささいなことで酷く母を罵ってしまった。内容は覚えていない。
 始まりはいつもと同じ母の愚痴。それに過剰に反応してしまった自分と、それに言い返す母。それを庇う父。
 それが収まらなかっただけだ。
 まだ、怒っているのだろうかと思った。素直に謝るのにも謝りにくい。いつものように玄関にそろえてある黒い革靴を履こうとした。だが、なかった。
 いつもはここに出したままにしているのだけど。
 下駄箱を開けて、黒い靴を取り出した。
 玄関の前においてある白い乗用車に乗り込む。少し無理して3年ローンにして手に入れた車だ。今まで中古だったが、これは新車で買った。内装は大して凝っていない。ごてごてと自分らしさで飾り付けることは大嫌いだった。
 同じ時間に向かい家の小学生が出てくる。見つかると元気よく挨拶されるので、扉が開く前に急いでエンジンをかけた。いつもと同じ、いつもと変わらぬ、朝の風景。靴が靴箱に収めてあったことだけが違う、朝。
 
 
 
 いつもと変わらない。そう。繰り返される毎日。
 
 
 
 ラジオの音が、普段よりも遠く聞こえていた。
 いつもと同じ番組。少し前までは地方の番組をしていたのに、ラジオ局も不況のあおりを食らったのか、いつからか東京の番組をこの時間帯は流している。
 そのほとんどがCM。時事をDJが話していた昔の番組が懐かしい。
 峠を越えて、次の集落へ続く道に入った。そこでは丁度タイミングよく、缶コーヒーのCMが流れる。何回も聞いたCMに飽きて、CDに変えようとしたときだった。大きくカーブしたその先に人影が目に入った。慌てて急ブレーキをかけた。
 驚いたような少年の大きな目と、その足元にいた一匹の茶色の犬。それがその瞬間に目に焼きついた。
 カーブで多少減速していたのが幸いしたのか、それとも見通しの悪いカーブだったから不幸だったのか。だが、車は大きなブレーキ音を立てて少年の目の前で止まった。
 緊張した少年の体が、緩むように見えた。少年は確認するように足元の犬を見、その視線をもう一度こちらに向けて2度瞬きした。その仕草に安堵したあとに、苛立ちがこみ上げてくる。
 犬の散歩にしても、横断歩道も信号もない道のど真ん中だ。集落からも離れている。いくらなんでもこんなところに人がつったっているなんて、誰も思いもしない! 
「危ないだろうが!」
 少年は車の前に突っ立ったまま、こちらに向けていた目を驚いたよう丸くする。
「僕が……」
 言葉が引っかかったような少年の声が、おびえているようで怒りが急速に収まっていった。大人気ないとも思ったし、犬が少年を慰めるように見上げている。その仕草がさらに自分を冷静にさせた。まずは、無事を確認するべきだっただろう。
「怪我、ないか」
 いくらか声のトーンを抑えてそう聞くと、少年はこくりと頷いた。
「すみません」
 消えるような声でそう言って、少年はぺこりと頭を下げた。
 何故そんなところにつったっていたのか聞きたかった。だが、うつむいている少年にそれ以上何かを言うのも気が引けた。それに、いつまでもこんなところに車を止めていたら、いつ来るかわからない後続車にも、危険だ。
 まだ、通勤車が少ない時間とはいえ。
「無事ならいいんだ。こっちも悪かったな。だけど、こんなところに突っ立っていると危ないぞ。気をつけろよ」
 早口でそう告げると少年は素直に頷いて、あわてて道の端へどけた。丁寧に頭を下げる少年を横目で見ながら、車を出発させる。
 サイドミラー越しに確認すると、少年と犬がこちらをじっと見送っているのに気付いた。
 茶色い雑種の犬が気になった。
 なぜか分からない。
 だけど、妙に懐かしい気がしていた。
 ラジオ番組は相変わらずCMを流している。
 今度こそCDに変えようと伸ばした手を止めた。
 とても億劫な気持ちに囚われていた。
 
 
 
 繰り返し繰り返す世界は、全てを億劫にする。
 
 
 
 また、水音が気になる。
 地方の天気予報を読み上げるテレビ。父が読んでいる新聞。その奥で黙々と皿を洗う母の後姿。
 皿を洗い流すために出し続けられる水道水。
 何か言わなければならないことがあったんじゃないだろうか。
 ネクタイを少し緩めた。
 その言葉を発しない後姿に。
 何かを言わねばならないことがあったんじゃないだろうか。
 そう思いながら玄関に揃えられた黒い靴を履こうとする。
 が、ない。出しっぱなしにしているはずの黒い靴を、靴箱から取り出した。
 冷たく重い感触がする。この靴は、こんなに硬かっただろうか?
 向かいの家の玄関をじっと見る。小学生の名前はなんと言っただろうか。
 その日はなんとなくそんなことを考えながら家を出た。
 
 
 
 峠を越しながら、昨日の少年のことを思い出した。
 あのとき、もっときちんと少年の無事を確認するべきだったのではないだろうかと思った。
 大丈夫そうにはしていた。だが、驚いたような表情が忘れられない。
 昨日、少年を轢きかけたカーブの手前で減速した。後続車との車間距離が詰められる。こんなところでこんな急に減速するなんてこと、普通はしないし、逆にされたらイライラする自分だったけど、昨日の今日で減速をしてしまった。そして、その先で人影を探してしまう。いるはずもないのに。
 いるはずもなかったのに、少年はいた。今日は道のど真ん中ではなくて、端で昨日の犬を連れて立っていた。
 真っ直ぐに前を向いて。そして、こちらの車に気付くと少し緊張した面持ちで、会釈する。何か言いたそうな表情が気になったが、後続車が気になってそのまま通り過ぎた。
 サイドミラー越しに確認する。少年は頭を下げたままだったが、犬はこちらをじっと見ているようだった。
 雑種の茶色い犬。
 そういえば昔、飼っていた気がする。
 名前はなんだっただろう。ポチ、コロ、チビ。ありふれた名前だったような気がするんだけど。
 
 
 
 いつ、どこで、何が。変わるのか、変わらないのか。
 
 
 
 靴がまた出ていなかった。
 自分もしまわないし、母もしまわないだろう。
 どうしてか、聞こうと思って振り返り、止める。
 どうでもいいことだ。
 出ていなかったら、出せばいい。
 そう思いながら靴箱から取り出し、履く。
 ネクタイを締め、背広を持ち、黒い靴を履き、車で会社まで行く。
 それだけのことだ。
 
 
 
 峠を越し、あのカーブへ差し掛かる。
 後続車もいなかったが、あの少年の姿もなかった。
 だが、その日は違う人の影が在った。
 女性の影だった。
 髪を肩で切りそろえた若い女性が、そのカーブの脇で何か一心に祈っているようだった。その足元の花束が目に付く。
 ああ、ここで。事故が。
 そんな風に思った。
 だが、そんな話を聞いただろうか?
 小さな町だ。事故があれば必ず耳に入る。特に、死者が出るような事故であれば。
 若い女性のスカートの裾がふわりと揺れた。
 どんな人が亡くなったんだろう?
 友達? 父親? 恋人?
 なんとなく気になりながら、サイドミラーで彼女の影を確認する。
 細い肩と、一生懸命に祈っている姿が印象的だった。
 どんな人を失ったのだろう?
 彼女にとって、よっぽど大切な人だったのだろうな……。
 ふと前に視線を戻すときに、視界の端に茶色い影が映った気がした。
 犬?
 引っかかりながらも、通り過ぎていく。
 
 
 
 繰り返しは、不幸でもある。幸福でもある。
 
 
 
 水音だ。
 水音がする。
 そう思いながらいつものように階下に下りる。
 水音はするのに、台所には母がいなかった。
 父もいなかった。
 どこにいったのだろう?
 そう思いながら、玄関へ向かう。
 靴がないので、また首をかしげながら靴を出した。
 黒い靴を履いて、車の扉を開く。
 今日は、向かいの家の小学生と鉢合わせする。今日は日直か。
 あいさつをしてくるだろうと身構えたが、小学生は急いで道を駆けていってしまった。拍子抜けしながら、車に乗り込んだ。
 いつもと変わらない、一日が始まった。
 
 
 
 あの場所に、少年がいた。
 足元にある花をじっと見詰めていた。少年の横に寄り添うように座っている茶色い犬が振り返って、目が合った。
 思わずブレーキを踏んで、カーブを抜けた少し先に車を止める。窓を開くと、丁度後続車が2台通り過ぎていった。その間に少年が犬の視線に導かれたように、こちらを振り返っていた。
「この前は、悪かったな」
 そう言うと、少年は首を振った。そうして、ぎゅっと拳を握り締める。緊張しているのだろうか?
 そんな姿を見ていると、わざわざ車を止めた自分が馬鹿馬鹿しくなった。会社に遅れるかもしれない、そんな意識をどこかに抱えながら、話しかける。
「いつも、散歩してるのか?」
 少年は顔を上げて、不可解な表情をした。足元にいる犬を顎でしゃくる。
「犬」
 少年は足元を確かめるように見て、おずおずと首を縦に振った。
「でも、俺、毎朝この時間に通るけど、今まで見かけたことなかったな」
「最近……いるようになって」
 『飼うようになって』だろと思いながら、まだ緊張が解けないのかなとも思った。こんな風に声をかけられたら、今の中学生だと文章になって返ってくるだけましかとも思う。
「そこさ」
 もっと聞けば、ちゃんとした言葉になって返ってくるのだろうかと思い、花束のほうに視線を向ける。
「事故でもあった?」
 少年は身体を少し震わせて、ゆっくりと花束を振り返った。
 そして、こくりと頷く。
「どんな?」
 そう聞いてから、驚いてしまった。泣きそうな顔で少年がこちらを見ていたからだ。
「悪いこと、聞いたか? 知り合いだったとか?」
 少年はそれに首を振った。それ以上しゃべる気配がなくて、少しため息が出る。
 朝の貴重な時間に、何をしているんだろうと思った。
「悪かったな、呼び止めて。じゃあな」
 再び、車を走らせようとギアに手を伸ばす。ミラーで後続車を確認し、大型のトラックと白い普通乗用車が通り過ぎてから行こうと決めたとき。
「新聞……。11月26日の」
 そんな言葉が聞こえた。
 白の車が通り過ぎて、顔をそちらへ向けたとき、もう少年の姿はなかった。
 なぜか、背筋が寒くなった。
 
 
 
 繰り返しの中では、大切なことはわからない。
 
 
 
 11月26日の新聞。
 起きてすぐに頭に浮かんだのはその単語だった。
 口の中で確認するように呟いて、着替える。ネクタイを取り出して、ふと思った。
 11月26日は、ユキの誕生日じゃないか。
 まだ、来てないはずだろう?
 いや、それよりも。
 今日は、何日だ?
 部屋のカレンダーを見ると、11月。その数字を目で追う。
 何日かわからないなんてことあるのか?
 ネクタイがうまく結べない。空でも結べるはずなのに。
 苛立ちから、首に巻いていたネクタイを抜き取って、階下へ降りる。
 台所、居間。
 誰もいない。
 どこに、行ったんだろう? 父も、母も。
 いや、それよりも。
 新聞。
 そう、今日の新聞を……。いや、テレビの方がいいのか。
 居間に入りかけて、やめた。
 あの、少年に会おう。
 なぜかそう思った。
 得体の知れない少年。あの少年が何かを知っている。知っているから、11月26日の新聞なんて言ったんだろう。
 会社もどうでもよくなった。
 玄関を出ようとして、靴を探す。黒い靴にはこだわらない、スニーカーでもなんでも、出しっぱなしの靴を探した。
 だが、自分の靴は一つもなかった。
 母のサンダル。父の革靴。父のスニーカー。母の黒いヒール。
 何故、自分の靴が。
 下駄箱を開けて、奥からスニーカーを取り出す。それを急いで履いて、家を飛び出した。
 車に飛び乗って、走らせる。
 ラジオの音が鬱陶しくて、すぐに切った。
 エンジン音が、とても遠く聞こえた。
 
 
 
 少年はいた。同じところに。
 足元の犬を見下ろして、立っていた。
 道路の脇に車を止めて、降りる。
 少年の下に駆け寄って、そして、不思議そうに見上げている少年に聞いた。
「今日は、何日だ」
「新聞、は?」
 11月26日の新聞のことを言っているのだろう。
 思わず苛立ちがこみ上げて、少し怯えている少年に言葉をぶつける。
「今日は何日だって聞いてるんだ」
 少年は足元の犬に目を向けて、軽く頷くとまたこちらに向き直る。まるで犬に伺うかのように。それがまた馬鹿にされたような気がして、苛立ちは一層積もった。
「なんだ。犬に聞かないとわからないのか?」
「許可を貰っただけ。
 お兄さんのループを侵していいのか」
「ループ?」
 おかしな子供だと思った。ゲームの世界の言葉かと思った。やはり馬鹿にされているのだろう。
 そう思うと、ここまで勢いだけでやってきた自分。おかしな子供にいらだった自分がばかばかしくなる。
 会社にだって行かなくちゃならない。
 こんな格好でここまで来て。どうかしているんだ。
「12月3日です。今日」
 少年がそう呟く。振り返ると、犬を撫でながらこちらを見ていた。犬もつぶらな瞳をこちらへ向けている。
 その目が合った。
 大きな目。太い足。短い尾。明るい茶色の毛。
 どこかでみたことのある犬だと思った。
「その、犬」
「……思い出してください。この犬、僕の犬じゃないんです。
 お兄さんの犬ですよ」
 悲しそうな瞳で、少年は首を傾げる。
 そして、目を伏せた。
「時間かな」
 そう呟いたとき、少年の輪郭が急にあやふやになって行った。背後の風景が、透けている。その足元の犬と共に。
「おい!」
「ちゃんと、見つけて……」
 掠れる声と共に、少年の姿も完全に消えた。
 
 
 
 消えた。
 
 
 
 認めないから終わらない。終わらないから消えていくだけ。
 
 
 
 気付いたら、そこは自分の部屋だった。
 カーテンの隙間から漏れる光の角度と、ベッドの枕元にある時計で自分がおきる時間だということを確認する。
 さきほどまで会っていた少年の残像を思い返し、夢だったのだろうかと思う。
 あまりにもはっきりした声と、それとは裏腹に曖昧な映像。
 何よりも、今、ここが自分の部屋であることが、現実を物語る。
 気付けばいつものように水音が階下から聞こえていた。
 人のいる気配に、なぜか安堵が生まれる。
 ひとまず階下に下りて、顔を洗う。そのとき、ふと居間を覗いた。地方の天気予報を読み上げるテレビ。父が読んでいる新聞。その奥で黙々と皿を洗う母の後姿。
 いつもの風景だ。
 新聞。
 そうだ、新聞。
 父の背後からその新聞の日付を覗き込む。
 12月4日。
『12月3日』
 そう言っていた少年の声がよみがえった。
 
『ちゃんと、見つけて』
 
 11月26日なんてもう何日も前のことだ。
 背筋を寒いものが走っていった。
 
 廊下の戸棚の上、古新聞を置いてある場所を探って見る。
 30日。29日。……26日。
 それを引き抜いて、中を覗く。
 とある記事に目を止めて、体中が震えてくる。
 背中を向ける父、背中を向ける母。
 永遠に続くかのような、水音。
 言葉が見つからなくて、届くのかもわからなくて。
 ただ、何かの間違いだと信じたくて、どうしたらよいのかわからなくて、気付くといつものように車に乗っていた。
 あの少年が、きっと待っている。
 そう、思った。
 
 
 
 少年はいつものように立っていた。足元に犬。そして、その手には新聞。
 車を降りると、少年は自分が何かを言うのを待っているようだった。いや、どういえばいいのかわからなかったのかもしれない。
「怖く、なかったのか?」
 少年は首を振った。
「見つけてくれたんですね」
 少年は持ってきた新聞を指差して、自分の持っている新聞を軽く示した。
「小さな記事だけど。
 でも、お兄さんは冷静ですね。
 たいてい、怒りをぶつけられるんだけど」
「おかしいとは思ってたからな。
 本当は、幽霊なんじゃないかと、思った」
「僕が?」
 少年はそう言って、困ったように呟いた。
「逆ですね」
「……まったくだ」
 
 
 
 11月26日の新聞に載った、小さな記事。
 そこにはありふれた交通事故の記事。
 ありふれてなかったのは、その事故の記事に自分の名前が載っていたこと。
 死亡、と添えられて。
 
 その場にしゃがみこみ、少年の足元にいる犬に手を伸ばした。
「コロ」
 犬は嬉しそうに尾を振ると、近くに駆け寄ってきた。
 勢いつけて抱きついてくるその体を抱きとめて、その顔をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。
「お前、変わってないなぁ。
 迎えに来てくれたのか?」
 ほえる代わりに鼻先を摺り寄せてくる。
 
 
 
「すまなかったな」
 
 
 
 そう言葉を残すと、少年は微笑んだ。
 優しい印象だけを残して、目の前の風景が掠れていく。
 意識薄れる中、一つのことを思い出した。
 伝えて欲しいことはたくさんある。だけど、もう間に合わない。
 ただ、懸命に口を動かした。
 ユキ。
 父さん。
 母さん。
 言葉は続かなかったけど、目の前の少年が頷くのを見たら力が抜けた。
 そして世界は白に埋め尽くされていった。
 
 
 
 残された少年は1人、しばらくその場を見つめていたが、踵を返す。
 そして、ゆっくりと駆けていった。
 
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