LIKE A WIND
PRESENTED BY:AKIRA HOTAKA
その人は、風のようだった。
不意に傍らに現れて、私の左隣、空いている席に音もなく座った。
彼が誰だか私は知っていた。
会の初めに教授によって紹介されていたのだ。いや、たとえ教授が彼を紹介しなかったとしても、きっと私には彼が誰だかわかったに違いない。
彼ほどの有名人、知らないほうがおかしい。
けれども……私はこのとき、自分の横にいる彼が、真実、皆の口に上る“彼”だとは信じられなかった。1度目にしたら忘れない、と言われるその美貌は写真のとおりだったにも関わらず。だから、失礼だとわかりつつ、素直に言葉が口をついた。
「神楽坂さん、ですよね?」
彼は、私の問いに一瞬だけ驚いた表情を見せた。それから、軽く微笑んで私に言う。
「他の誰に見える?」
静かな否定に、私は慌てて頭を下げた。
初対面の先輩に向かって、なんとも失礼だと気づいたからだ。
本来の私ならば、そう尋ねる前に自分の名前を名乗っていただろう。けれども、この夜はちょっと状況が違っていた。
最初からつまみも食べずにビールばかり飲んでいたから酔っていたのである。思考回路は特別に破綻をきたしていたのだった。
「頭を下げるまでもないよ。そんな風に聞かれたことがないから、ちょっと驚いただけさ」
彼は、気にもしてないことを示すかのように、ビールの入ったグラスを掲げてそれを一気に飲み干した。そして、私にグラスを差し出す。
ビールを注ぐことで今の粗相をなかったことにしてくれるというのだろう。大人な人だ、と私は実感して、一番近くにある栓のあいたばかりの瓶を取った。
「さっき、向こうで聞いてきたよ。就職決まったんだって、おめでとう」
「ありがとうございます」
「ずいぶん早く決めたね、実力者だ」
彼は、嫌味にならない程度の賛辞を私に送ってくれた。
私の研究室は、ほとんどの者が院に進学する。同期の連中は、私の就職を祝いつつも内心では何を考えているかわからない節があるのだが……彼が発する言葉は、そんな連中とはちょっと違って、裏がないように感じ取れた。
それがまた、噂に聞いている彼とは違うので、私の困惑はますます深まっていく。
私の困惑など知らない彼は、胸元から煙草を取り出すと「いいかな?」と聞いてきた。
私の前にある灰皿には吸殻がいくつかあるのだが、彼は私が煙草を吸わないのを知っているらしい。丁寧にもそう尋ねてきた。周囲に喫煙者が多いからだろう、私は他人が煙草を吸うことにあまり抵抗がない。間を置かずに首を縦に振ったのを確認して、彼は灰皿を手に取ると私から遠ざけるようにそれを置いた。
彼が煙草に火をつけている間、黙っていることに居心地の悪さを感じてしまい、私は一度口を硬く結んでから何を話そうかと思案した。会ったらこんなことを聞いてみたい、とそれはもう山ほど考えていたはずなのだが……実際に本人を前にすると、くだらない質問しか思い浮かばなかった。その中でも比較的まともな質問を私は口にする。
「神楽坂さんはお家を継がれないんですか?」
彼が大企業の息子だということは、彼の整った容姿と一緒で、有名な話だ。
彼は、美味しそうに一服してから、そうだね、と呟く程度の声音で返してきた。
そして、その言葉足らずを補うように続けて話す。
「やらなきゃならないことがあるから、父親の手伝いをしている時間はないんだ」
「やらなきゃならないこと、ですか?」
「そう……守らなきゃならないものがあるのさ」
普通の男が言ったら、なんて気障な台詞なんだろう、と表情に出ていたかもしれない。
しかし、彼の場合、その雰囲気からか、きっと自分では推し量れないようなものを抱えているんだろう、と思わずにはおれなかった。
なぜ、と言われてもわからない。
ただ……彼の顔が一瞬翳ったような気がしたから……。気のせいかもしれないのだが。
「それは、俺しかできないことなんだ。他の誰にもできないことなんだ」
「なんか、神楽坂さんってすごいですね」
思ったことを素直に口に出したのだが、それがおかしかったようだ。
彼は、目を丸くしてからクスクスと笑んだ。年上の男性をこう表現するのは失礼かもしれないが、可愛らしい様子だった。けれど、私はそんな様子に微笑んでいられたわけではなかった。なぜ笑われたのかわからないから、顔を真っ赤にしてしまった……。
困って黙ってしまった私から目を逸らし、彼は手近にある瓶ビールを手に取る。煙草を持ったまま、空いている右手一本で私のコップにビールを注ぐ。
恐縮しながら、それを手にとって口をつけた――よく冷えていて、美味しい。
「すごい、ねぇ……そんなこと言われた経験ないなぁ。たいてい、『そうですか』だったよ。――すごくなんかないからね、別に」
彼は、煙を深く吸い込み、大きく吐き出す。
上っていくそれをじっと見つめて、諭すような優しさで言葉を紡いだ。
「君だって、あるんだよ」
「え?」
何のことだかわからずに、思わず言葉を返す。
「何が、あるんですか?」
「君にも、君にしかできないことがあるんだ。絶対に」
「私にしかできないこと、ですか?」
そんなこと、考えたこともなかった。
今までは、しなくちゃいけないことばかり考えてきたからだ。
特にここ数ヶ月は、就職活動をするにあたって、どうすればいいのか、どうしなくてはいけないのか、そればかり考えてきた。
彼は、首を縦に振って、自分もコップを手にとった。
「そう、君にしかできないことがある。それを探すといいよ……そうすれば、幾つもの可能性を見出せると思う」
「神楽坂さんは、もう、自分にしかできないことを探さないんですか?」
「俺?」
コップを勢いよく呷ってから、彼はグラスを凝視した。
口元に笑みが浮かんでいる――が、それはひどく悲しい気配のするものだった。
「俺の未来はもう、決まっているから……」
私は口を閉ざした。
確かに、院に進んでドクターまで修了したとなると、進む道はある程度決まってしまうと思う。でも、でも……。
「決まっている、なんておかしいんじゃないでしょうか?」
気づいたら、生意気にも反論の言葉が口から出ていた。
酔いはまだ冷めてないらしい。
先輩に口答えするという行為に反省するどころか、私は言いつづけた。
「だって、自分にしかできないことを見つけるのって、可能性の追求なんですよね? なら、決まっている未来の中にも自分にしかできないことって探し出せると思うんですが」
自分のことも知らずに何を言うんだ、なんて彼は言い返してこなかった。
気性が激しいと聞いていたのだが、このときの彼はすごく穏やかで、私の目をじっと見つめてきた。
泣き出してしまうのではないか、と言えるような雰囲気だった。
何か言いたい、けれども言えない、そんな表情。
一度瞼を閉じて、彼は深く呼吸をした。次に目を開けたとき、彼はこちらが見とれずにはおれない笑顔を向けて、一言。
「ありがとう」
それだけ、言った。
なぜ、彼の笑顔を見て不安になったのかはわからない。でも、何か言わなくては、と思った。
その機会はすぐさま奪われた。教授が、彼を遠くから呼んだからだ。
私は、腰を浮かしかけた彼の名を呼ぶ。
引き止めて、何か声をかけなくては。
焦る気持ちで思ったのだが、彼は私に何も言わせないつもりがあるのかないのか、自分からしゃべりだした。
「君には、君の可能性を追い求めて欲しい。今じゃなければできないこともあるし、来年の4月以降じゃないとできないことも、きっとあるから」
少し手厳しい口調、でもそれは、間違いようもない応援のメッセージ。
「俺も、俺の可能性を追ってみよう。限られているかもしれないけれど……ありがとう」
彼は、テーブルの上にまだ中身の入ったままの煙草を残したまま、私の元から逃げるように素早く立ち去っていった。
そう、まるで、風のように。
私の心を掠めながら、彼は静かに去って行った……。
<終>
Present for TERRA−SAN!
Congratulation! The 1st Anniversary!
2000.09.30(Sat) Written by Akira Hotaka