「起きろっ!」
タウは耳もとで発せられた高い声に眠りを破られた。起きようと動きかけて、その身が鉛のように重い事に気付く。目を瞑ったまま、心臓は激しく鼓動した。
もしかしたら、地に来た影響かもしれない!
助けを求めるように咽から声を絞り出す。
「ファイ……動けない……」
「あったりまえじゃない。私が乗ってるんだもん」
ぱちっと目を開けると、イクロの意地悪そうな笑顔が目の前にある。
「イぃ……!」
「イクロ! さ、起きなさいよ。町に行くんでしょ」
「じゃあどいてよっ」
「はいはいはい」
おどけたように立ちあがると、イクロは鼻歌を歌い出した。タウはため息をつきながら立ちあがり、ふと思い出す。
「イクロ……機嫌がいいね……」
「そう?」
今にも歌い出しそうなイクロに、タウはほっとした笑みを洩らした。昨日のこと、聞いてたんだろうか?
「えっと、『マチ』? マチって何?」
「だって、地人を見に行くんでしょ? ファイがそう言ってたわよ。 地人が集まってるところを、そう言うんだって」
ファイという名前を出して、少しだけイクロは眉をひそめた。が、気を取り直したようにまた鼻歌を歌い出す。
「そういえば、ファイは」
「水を汲みに。不便よね、地人は。食べなくちゃ生きていけないんだもん」
「僕たちもそうだよ」
「馬鹿ねっ。毎日毎日食べなくちゃならない地人と一緒にしないでよ!」
イクロはそう言ってタウに近づいてくると、タウのかぶっていた毛布を拾い、タウにつき付けた。
「ちゃんと片付けて」
「……」
タウはそれを受け取ると、丁寧にたたみだした。腕を組んで手伝おうともせずにイクロがそれを見下ろす。鼻歌を歌わずに、静かに見下ろしていた。
「ねぇ、タウ」
「んー?」
「どうして、地人なんか見に行くの?」
タウにはイクロの表情は見えなかった。けど、その声の響きから少しだけ不満そうなことがよくわかる。
「どうしてって……知りたいからだよ」
「地人を?」
「だって、ヨバルスの泣く原因、本当のことわからないじゃないか」
たたみ終えて、タウは顔を上げた。イクロの真剣な顔を前にして、少しだけ目を見開いた。
「本当に、ヨバルスが泣く原因が地人たちのせいだとしても」
「そうに決まってるじゃない」
「待って、ちゃんと聞いてよ!」
イクロは文句を言いかけて、それでも口をつぐんだ。それを見てからタウが言う。
「地人には地人の理由があるかもしれないんだよ。どうするにしても、それを知りたいんだよ」
「んで? 地人がそれ相応の理由でヨバルスを泣かせてて、私たちがどんどん死んじゃっても、タウはにこにこして我慢するのね」
「ちがうよ」
「違わないわよ」
「イクロは決めつけすぎだよ! 僕たちは何も知らなさすぎなんだよ。 まずはヨバルスの泣く原因を知らないと。それを見つけないと……」
「じゃあ、ヨバルスの一枝を探しましょうよ」
「それでも、地人に聞かないと……」
「……タウは……。ここが好きなのね」
急にトーンが下がったイクロの声に、タウはぎょっとした。さっきまでの機嫌のよさが嘘のように、イクロは少し泣きそうで、怒っている目でタウを見る。
「ファイみたいに、ここに惹かれてるんだ。だから、地人に会いたいって言うんだ」
「違うよ、イクロ。僕は……」
イクロの顔は、ほとんど泣きそうだった。
「タウも、行っちゃうんだ」
「イクロ、違う……」
大粒の涙が、イクロの睫毛に引っかかる。タウはあたふたとしてしまった。イクロの涙には慣れてない。
「僕は空が好きだから。ヨバルスが好きだから。だから、大丈夫だよ」
ファイが地に求めているものも気にはなるけど。睫毛に引っかかった涙に、そろそろと手を伸ばし触れると、それはすぅっとイクロの頬を伝って落ちた。
いつも強気なイクロがすごく頼り無く見えて、タウはどきどきした。無意識に、その涙の流れた跡に……その頬に唇を近づける。
「どこにも、行かないよ」
柔かな曲線を描いた頬に唇をつけると、イクロが驚いたように目を見開いた。
「タウ?」
「っぁ……。ご、ごめん!」
飛びずさり、顔を真っ赤にするタウをイクロはしばらく見つめていたが、弾けるように笑い出した。ので、タウはますます顔を赤らめてしまう。
「イクロ!」
少し腹立たしくなってきた。
「ごめん、ごめん。何もそんなに謝らなくても……」
と、イクロが近づいてきて、タウの両手を握り締めた。向かい合って両手を繋ぎ、しばらくぶらぶらと揺らしているのを見つめながら、イクロは小さく呟いた。
小さすぎて解らなかったけど、タウにはちゃんと伝わっていた。それは小さな頃からの儀式みたいなものだったから。
「お前達、本当に恥ずかしいな……」
戸口から声をかけられて、二人はぱっと手を離した。ファイが優しい目でこちらを見て、口元に笑みを浮かべている。
「いつから居たの?」
どきどきしながら、タウはそう聞く。水がめを持って、窯に近づいていくファイを目で追いながら。ファイは笑いながら、言った。
「内緒」
「気になるじゃないか」
「まだその仲直りの仕方してるんだな……」
懐かしそうなファイの呟きに、タウとイクロは顔を見合わせた。イクロがふんっと顔を反らす。
「関係ないでしょ」
「気付いただろ? イクロ」
ファイはそう言うと、水を窯にかけてこちらを振り向いた。
「何をよ」
「……お前の大切なもの」
意味深にそう言うと、ファイは小さなパンを戸棚から取り出した。かちかちに硬いそれを、窯の近くの余熱で温める。
「町に行く前に、一つだけ言っておきたいことがある」
ファイは自ら話題を変え、少しだけ厳しい口調でそう言った。
「ヨバルズシアだと解ったら大事だからな。ヨバルズシアをあがめる奴も居るが、悪の使いだと思う奴もいる。混乱におちいるからな」
ファイはそう言い、イクロを見た。
「それから、絶対に歌を歌うな」
「どうしてよ」
「空では風が伝えて良い響きと悪い響きを知ってた。だから、お前の歌は皆が聞いても平気だったんだ。
ここの風はそんなことどうでもいいと思う力さえないんだ。ただ風として存在するだけだ。おまえが歌うとな、全てが伝わる」
「どういうこと?」
「とにかく、歌うな。もし、歌って……それが地人に災いをもたらすようなら」
ファイはその目に一層強い光を浮かべた。
「俺はお前を、殺さないといけなくなるからな」
「ファイ!」
イクロが身体を凍らせ、タウが非難の声を上げた。
「俺は、地人になったんだよ。タウ。
最終的には、地人を選ぶ。ここで食べたり眠れたりするってことは、そうやって生きることを選んだってことなんだ。
自分の意思でそれを選んだんだ」
タウは眉をひそめた。すごくファイが遠くなった気がした。
イクロを殺さないといけなくなると言いきったファイが……。
「それが、ファイの欲しかったもの?」
ファイは無言で顔をそらした。そうして、部屋には湯の沸きはじめた音だけが響いていた。
「サイテーね」
イクロがぽつりと呟いた。
「本当に、あんたは地人だわ。『殺す』ことを躊躇しない。地人だわ」
「イクロ」
タウがたしなめるように呼ぶと、ファイは少しだけ笑った。
「そうだ。イクロ」
タウが忙しなく視線を二人の間で行き来させた。
「俺はもう、ヨバルズシアじゃない」
そう言って静かにお茶をカップに注ぎ出した。
「守りたいものが、変わったんだ」
イクロはファイを睨みつけたまま、無言だった。歌を歌わない……歌えない。
それがイクロにとってどういうことか、まだタウにはよくわからなかった。
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