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2 弟とヨバルスの種 【2】 |
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出発の日の朝、タウはヨバルスの前に浮かんでいた。いつも悲しみの空気を纏っているヨバルスは、今日はとても静かな面持ちを見せて、タウに向き合っている様だった。
タウはいつものように元気良く挨拶はせずに、ただただヨバルスを見つめていた。
ヨバルスが、何かを言おうとしているような気がしたから。
時間だけが経っていった。だけど、タウはじっとヨバルスを見つめている。静かなヨバルスの顔を見ながら、タウは心の中に風があるのを感じた。
ヨバルス。
ヨバルスに本当は言葉なんて要らないのかもしれない。タウはヨバルスを見ながらそう思った。ヨバルスは……なにも言わなくても解ってくれている。
だから、心を込めてヨバルスを見つめる。その幹に右掌を置いた。
僕が地上に負けない様に。
ここに帰って来れる様に……。ヨバルスを心に刻みこんで行く。
イクロと僕を守って下さい。
ううん……イクロと僕はここに帰ってくる。せめて見守っていてください。
かさっとヨバルスの枝が揺れて、タウは弾かれた様に上を見上げた。風がそこに居るわけではなかった。
「ヨバルス?」
ヨバルスの天にむけて張り巡らされた枝の間から、小さく日が洩れている。それに片目を瞑りながらタウは何があるのか見つめていた。
と、ヨバルスの小枝が2つ、すぅっと音もなくタウの目の前に降りてきたのだった。
風が運んだのではない。
タウは琥珀色の目を輝かせた。全身に鳥肌が立つのを、むしろ心地よく感じ、恐る恐る二つの枝を掌にのせた。そっと握り締めると感極まった様に顔を上げる。
「ヨバルス!」
なにも言わないヨバルスは、沈黙の中でも優しい波長でタウを包み込む。少しの悲しみも含めて。
行ってきなさい。
そう言われた気がした。
同時に、謝られたような気もして、タウは首を傾げたが……2つの枝を持ってタウはヨバルスに微笑む。
「行ってくる! 行ってくるよ、ヨバルス!
僕は平気だよ。ヨバルスの贈り物だ! ありがとう!!」
タウはその幹に軽く口付けて、タウは通りすぎる風に乗り換えて、みなが待つ城へ帰っていった。
タウの向かう方角から、イクロの歌声が風に乗って渡り、ヨバルスの幹を包みこむ。
愛しい子……。
ヨバルスは呟いた。
愛しい子たち……ごめんなさい……。
それでも、私は……。
城にはいくつか張り出されたテラスがある。それぞれ泉が涌き出るそこで、普段人々は談笑したり、日向ぼっこをしたり、また洗濯物を干したりする。
そのうちリューラに近い大きなテラスは、木も周りを囲む様にしかなく、石畳が広がっている。ヨバルズシア達の集会や祭りに使われる所である。
そこにルズカルを筆頭に7人頭が勢ぞろいし、ヨバルズシア達みんなでタウとイクロを見送ろうとしていた。ルズカルの足元では、シグが一人顔を興奮で赤らめて、にぱにぱと笑っている。バタバタと手足を動かすのを、ルズカルが肩を押えることで最小限にさせているようだった。
イクロの歌を、みんながうっとりとした顔で聞いていた。人々が作り出す半円の中で、イクロはヨバルスの方に向けて歌をささげている。
イクロの歌に歌詞はない。
歌詞も、時には楽器さえも必要がないのだ。
響きが彼女の歌の全て。
風との調和がその美しさの全て。
しばらく、この歌姫の歌が聞けないと思うと、みなはとても哀しくなるのだ。
イクロの母も素晴らしい歌い手である。イクロにその才があると知ると徐々に全てを娘に譲って行った。今は完全に引退しみなに歌を贈るのはイクロの役目となった。
だが、イクロがいなくなるとなれば、彼女が再び表舞台に立つのだろう。華やかで且つ澄んだイクロの歌声とは違い、落ちつきのある響きと暖かさにまた皆が慰められるのだろう。
イクロの歌に乗って、タウが戻ってきた。イクロの近くに降り立つと、彼女の歌が終わるまで待つ。タウが一緒に戻ってきた風は、イクロの頭上で彼女の歌に聞きほれていた。
イクロは歌い終えると、みなを振り返り、少し気取ってお辞儀した。歓声と拍手の中にイクロは迎えられ、みなが上気した顔でイクロを取り囲む。
必ず帰ってきてねと口々に言う人々に、当たり前よと声を張り上げているイクロを横目に、タウはルズカルに向かって行った。
「にーちゃっ!」
ルズカルの手を振り払って、シグが後ろからタウに抱きつく。シグを背負ったまま、タウはルズカルに二つの枝を指し示した。
ルズカルはそれを見つめ、しばらくして頷く。
「ヨバルスがいつも側に居てくれれば、お前は空を忘れないだろう」
「お守りだよね?」
「そうだな。だが、それを決して地人に見せてはいけないぞ」
「どうして?」
「それは地人にとっては魔法の枝だよ。命を吹き込んでくれる魔法のな。皆が争う。決して見せるな。袋に入れて首から掛けておくがいい」
貰った枝は、小指ほどの大きさだった。タウは頷く。ルズカルに言われて、小さな袋を持ってきた女性からそれを受け取り中に入れた。しっかりと紐を結んで、二つのお守りができる。
一つを自分の首にかけ、もう一つは左手でぎゅっと握り締めていた。と、シグがタウの背中から降りて、タウの前まで回りこんできた。そして、満面の笑顔をタウに向ける。
弟のしようとしていることが予想だにできなくて、タウはその笑顔に笑い返した。
「シグ、しばらくお別れだけどな」
「にーちゃ。これ」
とシグがぎゅっと握り締めた右手を、タウの目の前まで上げた。
「なにかくれるのか?」
ルズカルもシグを見守っている。小首を傾げたタウの目の前で、シグは右手拳を開いた。
「……シグ……」
シグの小さくてぷくぷくとした掌に、ちょこんと載った一つの種。小さな細長い種。
シグは驚いたタウの表情にも気にせずに、受け取ってくれる様に催促している。ルズカルも驚きを隠せない様だった。
「これは、駄目だよ。駄目だよ! シグ! お前がヨバルスから貰った最高の宝物だろ!」
ヨバルスの種。
ヨバルスから取れる果実の中には、種は入っていない。果実はヨバルズシアたちの命の源。それ意外にはありえない。ヨバルズシアたちこそが、ヨバルスの子供のようなものだから。
ただ、シグが初めて食べたヨバルスの実には、一つだけ種が入っていた。それを見たとき、幼心にも父が神妙な顔をしていたことを、タウは覚えている。
そのとき、ルズカルが何を呟いたのかはタウは覚えていない。ただシグのお守りになると、シグがヨバルスに特に愛された子供だと、言っていたことだけは覚えている。ただ、その言葉とは裏腹に、喜んでいる様には思えない父の表情。
ヨバルスに特に愛されている……。このフレーズは当時タウの嫉妬の対象でしかなかった。だが、シグを見ているとよくわかる気がする。
誰にも向ける最高の笑顔。
タウがそんなことを思いつつ、シグに怒鳴りつけるとシグは一瞬きょとんとした顔をした。
「にーちゃ?」
「これは、お前のもの!」
シグは視線を自分の掌に落とした。そして、しばらくじっとそれを見つめ、またタウに目を向ける。
タウはぎょっとした。シグの目に大粒の涙が浮かび出し、横にぎゅっと引かれた唇が、震えはじめる。顔がどんどん赤くなり……。
タウはよくこの瞬間を見てきた。その度にルズカルの拳を頭に受けてきたわけだが。
「あ、あああああ! 泣くなっ! 僕悪いこと言ってないよ! 父さん」
助けを求める様にルズカルに視線を上げると、笑いをかみ殺したような表情をタウに向ける。
「受けとってやれ」
「へ?」
口を開けるタウは、ぐずぐずと言うシグの抑えた泣き声を聞いていた。
「いいの?」
「シグはシグなりに……お前のことが心配だろう。それに」
ルズカルはくしゃっとシグの金髪をなぜた。
「私も、お前がそれを持っていたほうがいいような気がする。ただ、それも……決して地人に見せるな。
いや、地上では出すな。よっぽどのことがない限りな」
「うん」
不思議な顔をしながら頷いて、タウはその場にしゃがみこんだ。まだ泣きかけのシグの視線と高さを同じにし、笑いかける。まだ差し出されている右手から、種をそっとつまんだ。
「兄ちゃん、これ預かるな?」
「にーちゃ……」
シグは半分泣き、半分笑った顔をする。
「ありがとうな? シグ」
「うん!」
と言ってシグはタウに抱きついた。頬に頬を摺り寄せてくる弟に、タウは苦笑しながらシグを抱きしめた。
「にーちゃ、好き好き」
「僕も。僕がいなくなっても、シグはお父さんの言うことをよく聞くんだよ」
「好き好き!」
「……聞いてる? シグ……」
タウは仕方ないなぁと呟いて、シグを抱き上げながら立ち上がった。と、ルズカルの隣にいつのまにかネスコが黙って立っていた。その後ろに静かな笑みをたたえて、ネスコの妻・ニーサが立っている。
ルズカルと同じ茶色の髪は、額の真中から分けられている。ルズカルよりも明るめの茶色の瞳は、静けさと知性をたたえていた。タウは思わず姿勢を正してしまった。
タウはルズカルの弟であるこの叔父を、尊敬もしていたが同時に苦手ともしていた。
「タウ」
よく通る声は、ふとするとルズカルそっくりに聞こえる。だが、やはり柔らかな響きが含まれているなと思うのだった。
ネスコの瞳はいつもよりも穏やかで、そして少しだけ寂しそうだった。ニーサの瞳は振りかかる黒髪でよく見えなかったが……。
「はい」
「イクロを、頼むよ。お転婆で迷惑をかけるかもしれないが」
「い、いいえ。そんな、いや、はい……」
お転婆というところを、否定すべきかどうか迷った結果のタウの答えに、ネスコは目を細めて笑い、ニーサは赤い唇を微笑ませた。
「頼むよ、タウ」
「はいっ!」
「おとーさま、タウに頼むのは見当違い」
後ろからイクロが顔を出して、ネスコの背中をぽんっと叩いた。そして、驚いた様に目を見開くタウの隣に並ぶと、腰に手を当て、胸を張った。
「私が行くから、タウが大丈夫なのよ」
ネスコが娘の言葉をたしなめ、ルズカルがその隣で押し殺した様に笑う。その様をタウはまぶしそうに見つめていた。
自分に抱き着いているシグを、ルズカルに渡し、二人はみんなと向き合った。
すぅっと息をすって、タウはみんなを観まわす。そして、にこりと笑った。
「じゃあ」
「頼むぞ、タウ。イクロ」
ルズカルの声を筆頭に、みなが口々にいろんな言葉をかけてくれる。それに手を振りながら、タウとイクロは風を捕まえ、頭上を2,3回回るとすぅっと下降していった。
誰もテラスから下を覗こうとはしなかった。
ずぅっと空を眺めているルズカルとシグ、ネスコとニーサを置いて、みなゆっくりと自分達の時間へ戻って行く。
シグが青空に手を伸ばした。
ニーサがすぅっと前に出て、ルズカルとネスコの視線を受け、テラスの縁にまで行く。片手を青空に伸ばし、そして、ゆっくりと歌い出す。
娘のイクロのことを思ってか、それとも自分達の行く末を案じてか、歌声は優しく柔らかく……そして少しの悲しみが含まれていた。
ふりかかる前髪の間から覗く赤茶色の瞳は、青空を通して何を見ているのだろう……。 |
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