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◇
闇の中で目を開く。
がたがたとゆれる床。その振動を感じながら、記憶を手繰り寄せた。
ああ……、そうか。
その思いは思ったよりも簡単に降りてきて、すんなりと心の内側に入り込んでいた。
自分は傷ついているだろうと思った。
だけど、どこかであの激情を納得している自分がいた。
傷つき、泣いている自分の中の一部分に嫌気がさしていた。
カーディス。
自分は、自分が生きるために人の命を奪った。
エノーリア。
自分は、自分が生きるために人を傷つけてきた。
そうやって生きてきたのに、どうしてあの言葉に傷つく必要があるのだろう。
ミラール。
だけど、お前はわかってない。
お前が居てくれたから……ここに自分がいるのに。
お前が居なかったら、お前が追い続けているという俺自身、存在しなかったのに。
俺に消えてほしいなら、
名前を呼ばなければよかったんだ……。
腕の中の温かさを感じて、ランは視線を落とした。
闇の中の微かな光を受け、揺れる金色の光。
自分を守るように回された腕の華奢な感触に、目を細める。
だけど、この手が繋ぎとめてくれている。
エノリア。
守ろうと思いながら、いつも守られている。
「大丈夫」
呟いた。
彼女が自分に言ってくれた分だけ、大丈夫という言葉を返す。
「大丈夫だ」
迷わないから。
強くなるから。
強くなれるから。
俺はまだ自分を見失っていないから。
もう一度目を閉じた。
ちゃんと、みんなの顔を思い出せるから。
この世界に繋ぎとめてくれている、みんなの顔と声を思い出せるから。
◇
目を開いた時、頬に触れる静けさが幻のように思えた。ゆっくりと呼び起こされる記憶がその幻を払うまで、エノリアはその空間で息を殺していた。ぼやけた視界に焦点が合ってきて、すぐ目の前にある寝顔を見つめる。
荷馬車に飛び乗って、ランを抱きしめて……気がつけば、そのまま眠ってしまったらしい。
自分にしがみつくように回されていた腕の力は解けていて、エノリアはランを起こさないように、そっと抜け出した。幌の入口に外套が置いてあるのに気づく。
いつのまにと思いながら、それを引き寄せてランの上へかけた。
何か、開放されたような顔をして眠るランを見て、突如こみあげてくる感情が、喉を熱くする。その感情は何だと言えばいいのだろうか。エノリアは視線を外し、幌の隙間から零れる明かりを見つめた。
馬車は動きを止めていた。外から聞こえる小鳥たちの声が、朝を告げている。明かりの角度からいって、太陽の高さはそれほど高くはなさそうだった。
ユセは一晩中馬車を動かし続けていたのだろうか。
そう思いながら、エノリアは荷台の幌の隙間を縫って外へ出た。
眩しい。
木々の間から差し込む光が、ちょうどエノリアの瞳を刺した。手で光を遮って、息を止める。
風が優しく木の葉を揺らす音がとても心地がいい。その心地よさに、不安になって、エノリアは自分を抱きしめた。
(……場違い)
温かいはずの日差しが、肌にふれると心に冷たさが突き刺さる。緩む涙腺と喉の熱さをぐっとこらえて、エノリアは草むらに足を落とした。
朝露に濡れた草の柔らかさを見下ろす。肺を美しく清涼な空気で満たす。そして、ゆっくりと吐き出した。その行為を繰り返すたびに、昨日のミラールの背中を思い出す。
(僕のこと、好き?)
ミラールの声を思い出して、きつく目を瞑った。
(愛している。忘れないで。僕はみんなのことが大好きだから)
じゃあ、どうして!?
そう心が叫んだ。そして、すぐに頭を振ってその思いをかき消す。
何故。
その答えは、わかっている。
エノリアは自分の掌に視線を落とした。小さな傷の付いたそれを見ながら、ミラールの笑顔を思い出す。
唇に手を当てる。泣きそうな口づけだった。
ザクーと行ってしまったミラール。
それが全てを物語っている。
(『ランで居て欲しい』という願いの中で、生きようとする貴方とは違う』)
ザクーにそう言ったのは自分だ。
ザクーは、ミラールの中に、その場所を見つけたのだ。
そして、ミラールの中にその場所を作り出したのは……。
エノリアは、ぎゅっと掌を握り締め、額を押し付けた。
(私だ)
暗い衝動がずしりと心にのしかかる。それと同時にかさりと草がこすれる音がして、エノリアは弾かれるように振り向いた。
小さな男の子が居た。
きょとんとした眼をしてこちらを見ていた。瞬間、思考が停止した。
何故。
ここに。
どうして。
人の形をした魔物かと一瞬考えが浮かんだ時、背筋を悪寒が走りかけたが、その男の子はそれを打ち消すように、にっこりとほほ笑んだ。
(え?)
そう思ったときに、男の子は軽い足取りで駆けてきて、エノリアの手を取り、引っ張った。柔らかく小さく温かな手の感触に、安心をしてエノリアはひっぱられるままに、足を進めた。
少し進むと隠れて消えそうな小道が見えた。その先に目をやれば、明る日差しが差し込んだ小さな丘がある。色とりどりの花々に囲まれて、小さな畑と小さな家が見えた。
幻のような美しさに、あの神殿を思い出し、足を止める。
だが、男の子は頷き、にこにこと笑いながらエノリアを引っ張った。
その微笑みに後押しされるように、エノリアはまた足を進めた。
土の匂いと、微かな太陽の匂い。
そしてそれに混じる、柔らかな香草の香り。
それは、小さな家から運ばれてきているようだった。
木造りの扉を開き、男の子に招かれるままに足を踏み入れる。男の子はぱっと手を離し、奥へかけて行った。
「ありがとう。トーヴァ。お兄ちゃんは、まだお寝坊さんでしたか?」
こちらが幸せになるぐらい優しい声の主は、ユセだった。喜ぶ小さな男の子を抱きあげて、愛おしそうに抱きしめる。
「ユセ、さん」
「おはようございます。エノリア」
エノリアはその晴れたような笑顔と、少年を交互に見た。ユセはその視線を感じて、少年を床に下ろす。
「私の息子です。トーヴァ、ほら、ごあいさつをして」
少年はにっこりと笑って、ぺこりと頭を下げた。
「えっと……エノリアです」
まだ状況をつかめずに、けれど少年があまりにも人懐っこい笑顔を見せるのとで、エノリアはつられて会釈をした。
「眠っている間に、勝手に山へ入りました。ここは、私の家です。堅固な結界で守られた場所ですから、ゆっくりと休めますよ」
「家」
「シャイマルークに、お戻りになるだろうと思ってノイド山脈に入りました」
「ノイド山脈」
「酔狂でなければ誰も入ってこない場所ですよ」
「酔狂……」
単語を繰り返すエノリアに、ユセは笑いながら椅子をすすめた。エノリアは、状況を呑みこみつつ、そこへ腰を下ろす。
「ここは、ユセさんのおうちで、ユセさんのおうちはノイド山脈にあるってことですね」
隠れ里のようだと思い、そう思ったことは正しいのだと思う。家一軒だけノイド山脈にある。それはあまりにも不自然で、でも、あの失われた神殿のことを思い出したら、それも可能なのかもしれない。
カイネ家という特殊な一族のことを思えば。
「小さな村でしょう? 500年という時は本当に長いです。おそらく、私たちが最後でしょうね」
かたんと奥の部屋から物音がする。エノリアの視線を感じて、ユセはその先を見た。
「ああ、妻です。アリア?」
待って、もう少しだからという声がする。立ち上がろうとしたエノリアを遮って、ユセは言った。
「エノリア。ここでゆっくりしていてください」
その言葉に、エノリアはこう聞いた。
「いつまで?」
何故かそう聞いたことに驚いた。ユセは、ふっと笑った。
「いつまででも、貴方が望むまで。ええ……ここにずっといらしてもいいですよ。全てが、終わるまで、でもね」
ユセはそう言って、トーヴァの頭を撫でる。
「我々一族が存在する限り、ここは守られます。それが、契約ですから」
ユセを見つめ続けるエノリアの鼻を、とてもよい香りがくすぐった。部屋の奥から、女性が出てきた。
エノリアが見つめる中、にっこりとほほ笑む。思い出して、エノリアは立ち上がった。
「ようこそいらしてくださいました。アリアです」
女性は微笑んで、軽く会釈した。エノリアとユセの前に器を置く。よい香りはそこから漂っていた。おいしそうなスープ。
「どうぞ」
亜麻色の髪に優しい紺色の瞳。ああ、この人がと思った。ユセの話に出てきた妻。じゃあ、この子が……あのとき言っていた救いたい子供。
エノリアは、そのスープに口をつけた。
温かい。なめらかで、とてもおいしい。
「美味しい……」
ほわりとして、息をついた。
それは幸せな時だった。
大切な人と一緒に居て、美味しいものを食べて、微笑みあう。
ユセが守りたいもの。そして、多くの人が普通に求めることができる幸せ。
これが幸せなんだと思う。
湯気の向こうのトーヴァの笑顔がにじむ。
ささやかな願い。
だけど、大切な願い。
(シャイナ……)
思い出す銀色の少女の微笑み。
貴方の求めていた幸せって何?
私は、この時間を幸せだと感じる。
守りたいと思う。
貴方が求める作り出す『幸せ』は、この一時を奪ってしまう。
(シャイナ)
思い出すのは、あの偽りのない優しい笑顔。
いじけた私が、視線を上げるまで曇りなく見つめてくれた銀色の瞳。
耳飾りはもうこの手にはない。
だけど、シャイナ。
今なら思える。
私はシャイマルークの王宮で、貴女とこうやってお茶をしていればよかったのかもしれない。
いつくるかわからない死を待っていたけど、でも、貴女は全力で守ってくれたと思う。
貴女と私の間にある『幸せ』を、私は守ればよかったのかもしれない。
それも、私と貴女の『幸せ』だっただろう。
「ふっ……」
泣き声が漏れる。両目を押さえる。
強く押さえる。
心配そうに背中を撫でる小さな手が、とても愛おしかった。
愛おしくて愛おしくて……何度も謝った。
謝る回数と同じだけ、決意をした。
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