手を振る。
手を振り返す。
それだけで、幸せなときもあった。
………『みや…』……。
優しく呼ぶ声。
……振り返る。
そして…。
気がついたら、保健室のベッドの上だった。心配そうに覗きこむ優に気づき、軽いデ・ジャ・ヴに襲われる。
(ああ…、お母さんも、昨日こんな風に覗きこんでいたんだっけ)
私は、何人の人にこんな顔をさせているのだろう…?
「…吐き気は…?」
優がそっと聞いてくる。落ち着いた響きの声に、美夜は軽く首を振った。
「…もう外、暗くなってる」
ぽつりと呟いた声が遠い。
「いいよ。そんなことより、気分はどうなのさ」
「ごめんね、こんな時間まで…」
「美夜」
真剣な目に言葉をさえぎられる。
「…余計なことを聞こうとは思わない。だから、ちゃんと質問に答えて」
「……。大丈夫」
倒れた理由を、優は言った通り聞こうとしなかった。安心したように目を和らげると、窓際の机についている川西先生を振り返る。
「大丈夫みたいです」
優が振りかえった方向から、短い返事が返ってきた。またこちらを振り返る優の髪が繊細にゆれるのを、なんとなく見つめていた。
「気がついたら一緒に帰れと言われてるんだよ。歩けそう?」
こっちの方が気の毒になるほど、心配そうな優に軽く頷いて、体を起こした。
「平気。もう」
(体「は」、平気)
自分の中だけで呟いて、美夜は目を伏せた。さっきから何度も何度も頭の中で繰り返すシーン。
手を振る。
手を振り返す。
見つめる。
振りかえる…。
振りかえったその人の顔は、見えない。
目をつぶると何度も繰り返される。
振りかえる。振りかえる。振りかえる……。
(誰)
雨の音がする…。
「美夜?」
弾かれたように、美夜は顔をあげた。そして、自分のいる場所が学校であることを認識する。
雨の音は、していなかった。
「つかまって」
優の差し出す腕をつかんで、美夜はベッドから降りた。机を離れて、こっちを覗きこんでいる川西先生に会釈をする。
何か言いたそうな先生に、ただ一言だけ聞いてみた。
「あの…、さっき陸上部の。倒れた…。上から見てて…」
上手く日本語が出てこない。
「ああ、あの子」
記録用紙に何かを走り書きしてから、先生は言う。
「大丈夫よ。自分で歩いて保健室に来たから。ちょっと頭打ったみたいだったから、一応病院に」
意味深にこちらを見ている優の視線には気づかず、美夜は少し息をついた。
安堵の溜息だと言うことに気づいて、美夜は自分の口に手をあてた。
「陸上部は練習熱心なのはいいけどね…。また…」
眉をひそめる先生を、不思議そうに見つめていると、優が間に入るように言葉をはさんだ。
「じゃあ、先生、私達はこれで」
「ああ、うん。気をつけてね」
先生の話を無理矢理さえぎって、優は美夜を連れて保健室を出た。
「ん、ちゃんと腕つかまって」
右手に二人分の鞄を持ちながら、優は左腕を顎で示した。
「いいよ。ゆうちゃん」
「倒れないように。いいから」
ちゃんとつかまるまでは動かないぞ、という姿勢を示され、やや困惑しながら美夜は優の腕につかまった。
「歩けるんだけどなあ」
そんな一言を無視しながら優は、歩き始めた。暗くなって、誰もいない廊下を二人で歩くと、優の口ずさむ新しい練習曲と足音だけが響く。
「…本当、何も聞かないんだね」
微かに呟くと、優は曲を口ずさむのをやめた。しんとした、廊下。足音だけが響いて、冷たい感じのする空気の中で、優の腕はすごく温かかった。
「聞いて欲しいなら…聞くよ」
優は一言そう言って、しばらく美夜の言葉を待つ。
「……やっぱ、いい」
「ん」
優はまた曲を口ずさみ始めた。コンクールの課題曲だ。優はトロンボーンパートだけ口ずさむので、美夜は重ねるようにクラリネットパートを口ずさむ。
校門に至るまで歌いつづけて、ふとやめた。
「ものたりないね」
「トロンボーンとクラリネットじゃなあ」
そう言ってくすくすと笑う優に、美夜は少しだけ微笑んだ。
その後、いろんな曲を口ずさみながら二人は帰路についた。お互い何も聞かず、何も言わず。
何か察しているような優の様子に、美夜は気づいていたが何もいわなかった。
教えてもらうではなくて…、思い出さないと。
失わなくてもいいものまで、失わないために。
(鍵は)
美夜はそっと拳を握りしめ、優の肩に額をくっつける。
「美夜?」
(美術室…)
失ったものを取り戻せそうな…あの空間と。
キタジマ ヒロアキ。
ここに風は吹かない。
囲まれたこの空間では。
淋しさも悲しさも愛しさも忘れてしまったこの空間では。
傷つけるものは何もない。
だけど、その代わりに
…「私」もいない。
クラリネットを握り締めたまま、美夜は美術室を訪れた。部活の途中抜け出して、思うままに足を向けたのは、やっぱり美術室だった。
キタジマ ヒロアキはそこにいた。窓枠に座って、グラウンドでの練習を見つめていた。その横顔を見ていると、美夜の記憶の何かがうごめいた。
会ったことある…、以前に。
その涌き出た感覚は、嘘ではなかった。
この静かな目をどこかで。
「美術部は…」
思いきって声をかけると、ヒロアキは驚いたような顔を一瞬して振りかえった。
「…美術部は、活動しないの…?」
声をかけるんじゃなかったと少し後悔したせいか、言葉尻は小さく消えた。もう、一週間以上も無視しつづけていたのに、今更来て調子がいいと呆れられているような気がする。
クラリネットを握り締めて、うつむいていると声が降ってくる。
「君のほうは、さぼっていいの?」
思ったよりも声が柔らかくて、美夜は少しだけ安心した。久しぶりだね、とかそういうことは言わずに、ヒロアキは言葉を続ける。
「うちの部活は週に一回。やる気がある奴は毎日来るけど、今日は外でスケッチしてるんだ」
もともと部員もそう多くないしね…。
美夜は思いきって顔を上げた。ヒロアキの目は怒ってはいなかった。
「少し変わった」
「…変わらないね。キタジマくんは」
どんな時もその目で、美夜を見ていた。初めて美術室で会ったときも、二度目に会った時も、人ごみの中に一度見つけたときも。
「廊下であったときは、知らないふりしてたけど」
「あの時は、だって話し掛けられたくなさそうだったからね」
ヒロアキはそう言うと視線をグラウンドに戻した。
「でも、少し変わったかな。僕も」
話をしたことで、扉から中に入る抵抗は和らいだ。入ってくる美夜に少しだけ視線をやり、またグラウンドに戻す。
野球部の掛け声が風と共に教室に入ってくる。
「寒くなってきたね」
「うん」
美夜は近くに散乱していた椅子のひとつに腰をかけた。ヒロアキはあまりこちらを見ようとしないので、美夜は周りを見回す。
「あの絵は」
「…もう、しまったよ」
「どうして?」
「見たくないんだ」
その言葉には少しだけ悲しそうな響きが込められていた。
「だって、描いたのはキタジマくんでしょ?」
「……そうだけどね。いろいろと思い出すから」
包まれて無造作に置かれたそれを指差して、ヒロアキは目を伏せる。
「家にもって帰ろうかと思ってる。役目は果たしたから」
ヒロアキは少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「で、君は?何のよう」
美夜はストレートな質問に答えられなかった。ややして何かを話さなくてはと口を開く。
「絵を見たくて」
違う。
「…う、ううん。違うそうじゃなくて」
ヒロアキは美夜を見つめていた。目をそらしたのは美夜のほうだ。
「そうじゃなくて…。私」
失いたくなくて、もう。
失ったものも、取り戻したくて。
ヒロアキは長く息を吐いた。
そうして呟いた。
「これから、僕にちょっと付き合わない?」
唐突な申し出に驚いて顔を上げると、ヒロアキは優しい目をして微笑んだ。
「つれて行きたいところがあるんだ」
楽器をしまいに行った美夜を待って、ヒロアキは昇降口から出てすぐの階段に腰を下ろす。
聞こえる人の声の遠さが、少しだけ胸を締め付ける。
抱えている包みを膝において、その上に両手を置いて、息を吐いた。知らず知らずのうちに、眉間にしわが刻まれる。
「ヒロ…」
ごめん。
もう待てない。
僕のすることの結果がどう出るかわからない。
だけど、もう見ていられないんだよ…。
ヒロアキは美夜をいろんな所につれて行った。駅前の通り、ちょっと古くなった映画館、落ち着いた感じの喫茶店。
行くところはバラバラで、同じ道を行ったり着たりするヒロアキに事情を聞いても笑っているだけ。中に入ることはせずに外でしばらく眺める。そうして、次の場所に美夜を促す。
かわいい雑貨屋、人入りが少ないギャラリー、小さな本屋。
なぜか行く所々に、同じ空気があるように美夜は感じた。
「どうして?」
聞くとヒロアキはあいまいに笑った。
「…次に行こうか」
鉢植えばかりを置いた花屋、図書館、そうして、病院…。
病院の前に立ったとき、何か今までの場所とは違うものを感じた。
優しい空気が冷たくなっていく。
無言な美夜を見てから、ヒロアキは病院を見上げた。一言も発さずに、二人で病院を見上げていた。
幾人かの人がその建物に入り、幾人かの人々が出てくる。
「来たくなかった」
美夜はポツリとつぶやく。
「『もう』」
自分の言葉の意味を分かっているのか、分かっていないのか…。
ヒロアキは特にコメントをせずに、その場を離れようとした。
彼女の気配がついてこないことに気づき、振りかえる。そうして、彼女の二の腕をつかむと、美夜はびっくりしたように身をすくめた。驚いた目が、ヒロアキに向けられる。
「行こう…。僕にもここは…辛い」
そうして、手を離しその場に背を向ける。美夜はその背中についていくような格好になった。
では、なぜつれてきたの?
その一言は出てこずに、ただ、つかまれた二の腕に残った感触が少しだけ…気になった。
ヒロアキが足を向けた先は、どんどん見慣れた風景に変わっていく。気がつけば、美夜の家の近くで、一番大きな公園に来ていた。
たくさん植えられた木は森を思わせ、四季折々の花の咲くスペースもある。
ここは美夜にとってお気に入りの場所…いや、お気に入りのはず『だった』。どうして、最近来なかったのか、自分で疑問に思ってしまうのだ。
「僕の家もこの近くだよ」
ヒロアキはそう言って木陰のベンチに腰を下ろす。
「そうなんだ。じゃあ、近所なのかな」
「公園を挟んだ反対側だよ…」
ヒロアキは、美夜が隣に座るのを見るとすっと腰をあげた。不審そうに見上げる美夜に、少しだけ笑いかける。
「ちょっと、待っててくれる?寒くなってきたから、何か温かいものを買ってくるよ」
気づけば、時計の針は5時過ぎを指していた。
「あ、いいよ。私が…」
ヒロアキは笑顔でそれを押しとどめる。少しだけ腰を浮かせた美夜は、ヒロアキの遠ざかる後姿を見ながら、また腰を下ろした。
大きく息をつく。
目をつぶった。幼い子のはしゃぐ声、長く響く母の子を呼ぶ声。そんなやさしい音さえ、自分の心の哀しみを深くする材料になってしまう。
さっきから、何かがうごめいていた。
奥底から、何かが湧き上がる衝動。それは、ヒロアキが行く場所場所に隠されていた。
同じ空気。
同じにおい。
(駅前の通り)
差し出された手を握り締めて、はぐれないように…。
(古びた映画館。喫茶店)
重ねた掌の暖かさ…。流れる曲の静けさ。
(雑貨屋、ギャラリー、本屋)
覗きこみ、近づいた顔の距離…。顔の…熱さ。
(花屋)
「切花は、嫌いだから」と呟く彼。
(図書館)
そして、病院…。
『忘れていてくれないかな…』
『だって、美夜…』
『一緒に行くだなんて言うなよ』
『もう』
『笑っていてくれよ』
『大丈夫だよ。大丈夫』
『お願いだから、笑って』
『忘れてくれたらいいのに』
『残酷かな…。残酷かもしれないけれど』
悲しそうな目。
『僕は悲しくなんかないよ。
涙といっしょに流れてしまえるまで、
君の中で眠るだけ…』
はっと目を開ける。
一瞬だけ何かが頭を横切った。
他の場所は優しい空気にあふれていたのに、あの場所は…。病院は…。
振りかえる。
振りかえって微笑んだのは…。
大きく息を吐いて、空を仰いだ。
目を閉じる。
あのとき、倒れたのは。
私を呼んだのは…。
木々の作る影。時折目の前を通り過ぎる穏やかな表情の人々。やわらかな風。心地よい鳥の声。
風が吹いた。そして、通りすぎていく。
そのとき。
(美夜)
やさしい声が降ってきた。美夜は目を見開き、そして、無意識に隣の空気を確認してしまう。
誰もいない。
ここには誰もいない…。
空耳?誰の声?知っている声…。
美夜は溢れ出す涙の意味がわからない。どうして、こんなに悲しいのか。
確かに、ここに誰かが居たはずなのだ…。いつも、こうやって座りながら、この時間を共有した誰かが、ここにいた。
私の求める暖かさ。
その2本の腕。
それを…持ってる人。
その人がここに居たはずなのだ…。
思い出せない。
いたはずなのに思い出せない。分かっている。
美夜は頭を抱えた。
私が欠いたもの…。
その人だ。
その人の記憶。
「あああ…」
そのうめきは感情すべての現れだった。美夜は背もたれに再び持たれかかり、空を仰ぐ。
振りかえる、その人。
私の…大切なその人。
今日行ったところどころに、その欠片は落ちていた。
その人との、大切な時間の欠片。
木々の間から見え隠れする空はゆっくりと赤く染まっていて、今の美夜にとって残酷なぐらい美しかった。
思い出したい。
思い出せない。
思い出したくない。
わからない…。わからない。どちらを望んでいるの!?
「美夜…」
その声は幻なんかじゃなかった。
美夜は目を見開いて、顔を向ける。そこに立った人影。微笑んで立っている彼。
逢いたかった。ずっとずっと。
もう逢えないなんていうのは嘘。
遠くに行ってしまっただなんてそんなのは嘘。
駆け出す。
そうして、抱きしめた。強く、確かめるように。
暖かさは嘘じゃない。
そうこの暖かさだ。失ってしまったと…思っていた。
ここに居るじゃない。私の目の前から消えてしまっただなんて嘘だった…。
「ヒロ…」
変な夢を見ていたの。貴方が居なくなってしまって、そうして私はそれを忘れるの。
忘れて、そして、苦しくて…。
何もかもを、遠くに感じた。
「ヒロ…」
「違うよ。僕はヒロじゃない…」
少しだけ困惑した声が、美夜を現実に引き戻す。恐る恐るあげた視線の先には、静かな目があった。
「…ヒロアキ…くん」
この目を…知っている。
「ヒロは…もういないんだ」
私はこの静かな目を知っている。声がかすかに震えた。
彼は口を開いた。
「もう…兄さんはいないんだよ。美夜…さん」
静かな目。哀しみをこらえたような。それとも、あふれてくる感情を押さえたような目。
雨の音だ。雨の音がする。
あの日の…音。
優ちゃんは私の代わりだとでも言うように号泣していた。
礼儀だけで葬列に参列する人々。
私は、遠くから傘もささずに見ていた。
参列なんてできなかった。だけど、確かめたかった。
本当に、彼が死んだのか。
確かめたかったけど、認めたくなかった…。
黒い葬列の中で、一人だけ静かな目をしていた少年が居た。
彼の写真を持って、傘もささずに一人うつむいていた。
静かな目に何を思っていたのか分からない。
ただ、そこに叫ぶような感情はなかった。静けさだけがあった。
彼の顔が少しだけ動いて、そうして私と目があった。
遠くに居た私の目とあった。
そこから、私の意識は途切れている…。
起きたら自分の部屋のベッドで、覗きこんでいる母がなぜ泣いているのか分からなかった…。
鮮やかに蘇る。
ヒロ。
キタジマ ヒロユキ…。北嶋 宏之。
私の一番大切な人。
そうして、突然、逝ってしまった人…。
「忘れていてくれないかなあ…」
最期にあったその日。勿論、そのときは最期だなんて思いもしなかった。ヒロはそうつぶやいた。
「どうして?何のこと」
私は今でも覚えている。そう言った時、出ていたまだ明るい月の冷たさ。
「少しで良いんだよ。…死んだら」
「そんな話…聞きたくないよ」
顔をそむける私の手を握って、ヒロは静かに言った。
「忘れていてくれないかな」
「いやだよ!」
叫んだ私に、ヒロは苦笑した。
「私は、一緒にいるんだから。ヒロと一緒にいるんだから。ずっとずっと居るんだから…」
「困ったな…」
苦笑しながら、呟く。
「絶対に!」
ベッドにうつぶせた私の髪を、ヒロはしばらく触っていた。
その手を少し止めて、また呟く。
「美夜をつれてはいけないよ…」
「じゃあ、死なないで。ここに居て…」
ヒロが一番辛いって分かっていても、繰り返さずには居られなかった。
「じゃないと…」
「だから、しばらく忘れていてよ。素直に泣けるようになるまで、忘れていて欲しいよ」
私はシーツを握り締める。
そんなことできない。
「美夜にはずっと…」
ずっと…。ずっと何…?
ヒロ、ずっと何って言ったの…?
「君のことは知ってた」
呆然としている美夜を隣に座らせ、宏明は静かな声で語り出す。
「兄さんの…彼女だって。
実は一度だけ、一緒にいるのを見かけたことがあるんだ。
兄さんの隣で、幸せそうに笑ってた…」
あの、笑顔で。
宏明は買ってきた缶の紅茶のプルタブを開けて、美夜の手に握らせた。
少し触れた美夜の手は、冷たくて、宏明の目が少し翳った。
「兄さんは、ずっと気にしてた。君を残して行くことを…。自分が死ぬことよりも、君を残すことの方を」
美夜の耳には届いているのだろうか…。
「グラウンドで倒れて、病院に運ばれて…、検査を受けて、そうして命の期限を告げられたとき、一番最初に呟いた。
『美夜は大丈夫だろうか』って」
なぜ自分のことを心配しないんだと問う自分に、兄は答えた。
『残されるものは辛い』と。
『自分はそこで終わるけど…、残されたものは続くんだ』。
「兄さんらしい…。いつも人のことばかり考えてた…」
いつも見舞いに行くと、笑いながら言った。今日は美夜がきたと。その笑顔はだんだん曇ってきた。
「いつか、こう言ったことがあるよ。『記憶は消せないものだろうか』って」
思いつめた顔で、兄さんは呟いた。
「『忘れてくれないかな』と。そうしなくては、『自分の死が君を殺す』って」
美夜の肩が少しだけ震えた。
「君が…、君が兄のことを忘れるのは、兄の最期の願いだったんだよ…」
『僕は悲しくなんかないよ。
涙といっしょに流れてしまえるまで、
君の中で眠るだけ…』
「どうして…」
「兄の最期の願いと、君が無意識に取った心の自衛手段が…『忘れる』ってことだった」
「私は…逝きたかった」
美夜は宏明に言いつめた。
「私はヒロと一緒に逝きたかった!」
「それを兄さんは…一番恐れてた。兄さんは…守りたいものがあったから」
宏明は握り締めたコーヒーの缶を見つめた。
「そして…君は、もう逝けない。だって、気づいてしまったから。自分にとって失いたくないものもあるって」
大切な人々と…コレカラと。
「そうじゃないの?だから、また美術室に来た…。違う?」
「違わない…。だけど!」
美夜は顔を上げて、ヒロアキを見つめた。
宏明はその美夜の視線に耐えられなかった…。いろんな感情が一度に吹き出て、その行き場が宏明に求められているようで。
宏明は視線を落とした。
「…帰ろう。送るよ」
もう、終わる。
「暗くなってきたから」
美夜の家の前まで、二人の間を沈黙が支配していた。ついて来る美夜の気配に気をやりながら、宏明は赤く染まった空気の中を歩いていた。
「ありがとう」
儀礼的な言葉をかけて、美夜はそそくさと自宅へ足を踏み入れる。
「これを」
宏明は、布で包んだ絵を美夜の目の前に出した。不思議そうな、美夜がおそるおそる受け取る。
「兄さんが守りたかったものだ」
あの、絵。
「僕が描くとどうしても未完成にしかならない…。ヒロの守りたかったものだよ」
君にあげるよ。と言って手を放す。これが彼にできる最後の手段。
そうして、かすれたような声で言う。
「僕も…守りたかった」
包みに視線を落とす美夜は、宏明を見ようともしない。
「本当は…何も言わずに、見守るだけにしようと思ってた。時が解決するだろうって思ってた。
でも、僕も…守りたかったから…。
君のあんな死んだような目を見ているのは辛かった。
辛そうな君を見てるのは耐えられなかった」
宏明はうす暗くなった空を見上げた。
「だから…この絵を描いたし、君が記憶を取り戻すことを手伝った」
美夜は答えなかったし、顔も上げなかった。
宏明は目を伏せる。自分にできることはここまで。
「…もう、やめるよ。僕は思い出してしまった君に、ヒロを見せつづけるだろうから」
冷たい風が渡る。
「だけど、僕は僕なりのこの絵を完成させたい。だから…いつか…」
「いつか…」
帰っていくヒロアキの背中は見送らなかった。
いろんな感情と思いが支配していて、どれが本当の自分の思いなのか、分からなかった。
自分の部屋で、その包みを開ける。
あの絵だ。
あの日に出会った絵。あの時と変わらない…。
眺めていて、美夜ははっと目を見開いた。
画面に手を伸ばす。
『兄さんの守りたかったものだ』
それは、他の線に隠されていて、一見したところではわからない。
『僕も…守りたかった』
私の笑顔がそこにはあった。
(『美夜にはずっと…』)
ずっと笑っていて欲しい…。
優しく呼ぶ。
振りかえる。
そして…、笑顔で
手を振る。
「ヒロ…」
今なら泣ける。泣いてしまえばいい。
「ヒロォ…」
すごく大切な人。すごく好きな人。愛する人。もうニ度とこんなに人を好きになることはない。絶対にない…。
「ヒロ…」
私は…もう追わないから。
生きていくから。
すぐには、笑えなくても。
時々、泣いても。
生きていくから。
そうして、いつか…。
いつか…。
『君が…ちゃんと笑えるようになったら。
僕は美術室で待っているから…』
何かが解けて、
周りの空間が解けて、
そうして、風が吹き出す。
冷たい風も、優しい風も
暖かい風も。
私は受けとめる。
抱きしめる…。
そうやって、生きていく…。
【終わり】
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